日本歴史地名大系 「戸津村」の解説 戸津村とうづむら 京都府:八幡市戸津村[現在地名]八幡市戸津〈荒堀(あらほり)・奥谷(おくだに)・奥戸津(おくとうづ)・干天(かんてん)・北小路(きたしようじ)・北戸津・御幸谷(ごこうだに)・五反田(ごたんだ)・小中代(こなかだい)・盛戸(さかんど)・正(しよう)ノ竹(たけ)・谷(たに)ノ口(くち)・露(つゆ)ノ花(はな)・堂田(どうでん)・蜻蛉尻(とんぼじり)・中垣内(なかがいと)・中代(なかだい)・中代浄恵(なかだいじようえ)・東代(ひがしだい)・東(ひがし)ノ口(くち)・水戸城(みとしろ)・南小路・南代〉八幡中央部に位置し、北は川口(かわぐち)郷・下奈良(しもなら)村、西は金振(かなぶり)郷、東は内里(うちさと)村。村域は南北に長く南は美濃(みの)山麓の谷まで続く。慶長五年指出帳(「石清水八幡宮史」所引)は戸津村八幡宮領の住人一二名(総高二四・七石)を記すが、その他正法(しようぼう)寺およびその塔頭の所領や善法寺家領、横(よこ)坊・法童(ほうどう)坊・井上(いのうえ)坊をはじめ山上各坊の所領があった。江戸時代には戸津村は東半部の淀藩領と西半部の八幡社領に二分されていた。 戸津村とづむら 石川県:小松市旧江沼郡地区戸津村[現在地名]小松市戸津町・南陽町(なんようまち)木場(きば)潟南方の平地と丘陵地からなり、西と北は林(はやし)村。「反故裏書」によれば、本願寺巧如の弟頓円(鸞芸)が越前藤島(ふじしま)(現福井市)に超勝(ちようしよう)寺を創建したあと、「母儀ト不和ノ事アリテ、加州粟津ヘ頓円コエ玉ヒテ、戸津ト云所ニ住坊アリテ」次男蓮覚をもうけたという。三州寺号帳では本蓮(ほんれん)寺は文安元年(一四四四)当村にいた頓円による開基という。「日野一流系図」の超勝寺・本蓮寺系図によれば、頓円の子本蓮寺蓮覚の子周如に「下粟津住 後戸津住」、その子明賢に「号戸津」の注記がみえ、本蓮寺の一門による戸津坊の継承が確認される。 戸津村とうづむら 三重県:桑名郡多度町戸津村[現在地名]多度町戸津多度川の南岸にあり、北岸の柚比(ゆい)村と相対している。丘陵の東側の小山(おやま)と接し、東に香取(かとり)、南に肱江(ひじえ)の集落がある。戸津の名は、古代の富津(とづ)御厨、さらにさかのぼって「古事記」の日本武尊東征にちなむ尾津(おつ)に通ずるものという。延喜式内尾津神社は多度川に近く、祭神は日本武尊。旧村社。西方の北小山(きたおやま)にも同名社がある。平安時代の終りに、伊勢平氏に富津二郎清綱の名が「尊卑分脈」にみえ、この地を根拠地にしていたと思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by