抜参り (ぬけまいり)
近世の伊勢参りの一形態。初見は《寛明日記》の慶安3年(1650)3月14日の条。近世初期には村役人の許可を得ない伊勢参宮を抜参りと呼んでいたが,しだいに主人や親などの許可を得ずに奉公人や子どもなどが参宮することを呼ぶようになった。また慶安3年のほか,1705年(宝永2),71年(明和8)のお蔭参りも抜参りと呼ばれることがあった。近世中期以降になると,抜参りを阻止した主人などが神罰を受けたなどということが信ぜられ,しだいに黙認されるようになった。なかには村の伊勢講の代参に同行する抜参りさえみられるようになり,若者組の行事の一つになったものもある。その帰郷にあたっては坂迎えをもって迎えるところもあった。ただ,初期にあっては抜参りは路銀を持たぬ者も多く,苦行であったし,乞食同様の姿での参宮も少なくなかった。
執筆者:西垣 晴次
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抜参り
ぬけまいり
伊勢参りの形態の一つ。もとは一般の私幣が禁じられて参宮を許されなかった庶民がひそかにお参りすること。近世には経済的事情などで行動や旅行の自由を制限されていた人々が,その主人や村役人・親などの許しをえないまま,白衣を着て伊勢参りにでかけることをいった。「ぬけ」とは封建的な身分支配関係からの逸脱をも意味し,初期には抜参りは禁止・処罰の対象であった。しかし伊勢信仰が盛んになると,小僧の参宮を妨げた主人が神罰をうけたといった類の話が広く伝えられるようになり,抜参りをしてきた者に対しても坂迎(さかむかえ)をして祝う習俗がみられた。抜参りは,お蔭参り同様に乞食(こつじき)参りで参宮することが多く,彼らには沿道の人々や富商から金品の施行(せぎょう)が行われた。
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世界大百科事典(旧版)内の抜参りの言及
【伊勢信仰】より
…この傾向は近世に引き継がれ,一生に一度は伊勢参りと上方巡り(かみがためぐり)を兼ねた大旅行に,仲間数人とともに出るものだとの通念が広まった。こうしてほぼ60年の周期で,いわゆる〈[お蔭参り]〉が勃発し,また〈[抜(ぬけ)参り]〉といって奉公人などが各自しめし合わせてひそかに参宮の旅に出ることなども流行し,ついに幕末期の〈[ええじゃないか]〉騒動にまで到達した。もともと日本の民衆には聖地巡拝の思想が根強く存在し,それは山岳宗教に結びついて熊野参詣や大峰・出羽三山への登拝ともなったが,聖地としての伊勢の内外両宮,[朝熊(あさま)山]登拝にもそれが明らかである。…
【お蔭参り】より
… 1650年3月中旬から5月まで箱根関所を通過した伊勢へ向かう民衆は1日2500人から2600人に及んだ(《寛明日記》)。この時は関東が中心で,お蔭参りとは呼ばれず,[抜(ぬけ)参り]と呼ばれていた。1705年4月9日から5月29日までの参宮人は362万人であった(《三方会合記録》)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」