改訂新版 世界大百科事典 「伊勢信仰」の意味・わかりやすい解説
伊勢信仰 (いせしんこう)
伊勢神宮を中心とする信仰。伊勢神宮は元来〈国家至貴の神〉として皇室以外の奉幣を禁ずるなど,制度上重い地位にあったが,平安末期には王朝財政の衰えとともに支持が薄くなったため,神職団の一部はいわゆる御師(おし)としての活動を開始して,全国的に信徒(檀那)網を広げることに努めた。ことに東海・関東の地方には御師の勧誘により神領としての御厨(みくりや)・御薗(園)(みその)を寄進する豪族・武将が多かったが,なかで相馬御厨を寄進した源義宗の,〈これ大日本国は惣じて皇太神宮・豊受宮の御領たるの故なり〉という言葉は,よく信仰内容を物語っている。仏教との関係についても,もとは神宮が仏事関係を固く忌むとされたにもかかわらず,鎌倉時代には東大寺勧進職の重源,法相宗の貞慶,真言律宗の叡尊,時宗(じしゆう)の他阿など有力僧侶の参宮が相つぎ,真言宗の通海は,仏教への帰依が神宮崇敬と矛盾しないことを説き,禅密兼修の無住は《沙石集》において,〈外には仏法を憂き事にし,内には深く三宝を守り給ふ事にて御座(おわし)ます故に,我国の仏法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉と述べている。室町時代になると足利義満・義持・義教など将軍自身の参宮が相つぎ,各地に伊勢講(神明講)の発達も見られて,一般民衆にまで参宮の風は広まった。神宮御師はそれぞれ各地で師檀関係を結び,檀家回りをし,御祓(おはらい)と称する神札を配って信仰を勧め,いっぽう勧進聖(かんじんひじり)たちが全国的に寄付を集めて宇治橋の架橋を達成するなどのことがあり,ついにキリスト教宣教師が本国に報じたように,〈かれらは,同所(伊勢神宮をさす)に行かざる者は人間の数に加ふべからずと思へるが如し〉というほどの景況に達する。これほどまでになったのは,おそらく民衆のあいだに,〈天照大神は一切衆生の父母〉といった信仰が形成され,これに加えて伊勢の外宮(げくう)の祭神たる豊受大神が食物神から,ひいては農業神として広く民衆の帰依を集めたこともあずかっているであろう。
こうして中世末の政治上・社会上の変動を経た直後,1614年(慶長19)伊勢踊の流行が起こった。村々辻々における踊りの盛行と,種々の託宣降下の評判とが,民衆のあいだに伊勢信仰を高揚させた。この傾向は近世に引き継がれ,一生に一度は伊勢参りと上方巡り(かみがためぐり)を兼ねた大旅行に,仲間数人とともに出るものだとの通念が広まった。こうしてほぼ60年の周期で,いわゆる〈お蔭参り〉が勃発し,また〈抜(ぬけ)参り〉といって奉公人などが各自しめし合わせてひそかに参宮の旅に出ることなども流行し,ついに幕末期の〈ええじゃないか〉騒動にまで到達した。もともと日本の民衆には聖地巡拝の思想が根強く存在し,それは山岳宗教に結びついて熊野参詣や大峰・出羽三山への登拝ともなったが,聖地としての伊勢の内外両宮,朝熊(あさま)山登拝にもそれが明らかである。ことに後者については,伊勢詣の出発・留守間・帰着にあたってのサカムカエ(坂迎え),ハバキヌギ,ドウブレ,兄弟分の契約など,多彩な民間習俗により深く跡づけられるのである。
→伊勢講 →伊勢参り
執筆者:萩原 龍夫
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