挽野新田(読み)くしびきのしんでん

日本歴史地名大系 「挽野新田」の解説

挽野新田
くしびきのしんでん

江戸時代中期に開発された榛沢はんざわ郡の新田。櫛引とも記し、櫛挽原新田ともいう。櫛挽原(櫛引原)は荒川北岸に展開する櫛挽台地上に位置し、赤松林を含む広大な雑木林で、現在の岡部おかべ町櫛挽と深谷市櫛引付近から隣接する寄居よりい町・花園はなぞの町の四市町にまたがる地域にあたる。「風土記稿」の榛沢郡総説の項に「郡内別ニ櫛引原新田ト唱ル処アマタアリ」とある。同書榛沢郡人見ひとみ(現深谷市)の項によると、持添新田の櫛引原新田は幕府領で、同村および柏合かしあい樫合かしあい上大谷かみおおや宿根しゆくね伊勢方いせがた萱場かやば(現同上)岡部普済寺ふさいじ・榛沢・はり本郷ほんごう(現岡部町)用土ようど(現寄居町)飯塚いいづか原宿はらじゆく猿喰土ざるがいと(現花園町)の榛沢郡一六ヵ村に分配された。しかし、享保七年(一七二二)の櫛引野開発差止訴訟覚(大谷家文書)は櫛挽野と地続きの村を野付と称して大谷・深谷新田・宿根・樫合・萱場・岡部・針ヶ谷・本郷・用土・飯塚原宿・猿喰土の一二ヵ村をあげ、野付でない人見・榛沢、桜沢さくらざわ(現寄居町)小前田おまえだ(現花園町)の四ヵ村を入会村と唱え、櫛挽野をこれら計一六ヵ村の入会秣場としている。

寛文一二年(一六七二)の櫛挽野入合覚(持田家文書)に「櫛挽野」とみえる。入会秣場は開発・新林を禁じたものが多いが、地の利を得た野付の村々は新開によって耕地の拡大を望むことが多く、これと対立する入会村々との間に争論が絶えなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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