中国国民革命に対する日本の武力干渉。第一次から第三次にわたる。
[岡部牧夫]
1927年(昭和2)、国民革命軍が北伐のため山東省に迫ると、日本の支持する張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)軍閥の勢力弱化を恐れた田中義一(ぎいち)内閣は、在留邦人の保護を理由に、5月関東軍から2000の兵力を送り、7月さらに2200を増派して青島(チンタオ)や済南(さいなん/チーナン)に進出させた。またこの間、政府、軍部、在外公館員などによる東方会議で、華北、東北の権益擁護のため対中強硬方針をとることを確認した。国民政府側は出兵に抗議したが、共産党への攻勢に転じて北伐を緩め、また日本の出兵にも内外の批判が浴びせられ、9月撤兵した。
[岡部牧夫]
1928年北伐が再開されると、田中内閣は4月ふたたび出兵を決定し、支那(しな)駐屯軍、第六師団など5000の兵力で山東省の要地を占領した。その結果5月には済南で日中両軍の武力衝突(済南事件)が起こった。
[岡部牧夫]
済南事件を契機に、日本側は同月さらに第三師団を動員し、山東省全域から華北各地に兵力を展開するとともに、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明を出した。1929年3月、済南事件解決文書の調印をみ、ようやく撤兵した。田中内閣のこうした強硬政策は、国民革命の進展をある程度妨げたが、張作霖の立場を強化するまでには至らず、28年6月、関東軍参謀大佐河本大作(こうもとだいさく)らが政府の思惑を超えて張を爆殺したため、かえって息子の張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)を抗日に向かわせ、同年末の東北の中央化、国民革命のいちおうの達成という結果を招いた。日本のたび重なる出兵は中国の抗日民族運動を強め、日本国内でも対華非干渉運動を巻き起こした。
[岡部牧夫]
『臼井勝美著『日中外交史』(塙新書)』
田中義一内閣が1927,28年の2次にわたって実施した中国山東省への出兵。
(1)第1次 1927年5月,武漢・南京両国民政府軍が津浦(天津~浦口),京漢(北京~漢口)両鉄道に沿って北伐を開始すると,田中内閣は済南居留日本人(約2000人)保護のため,まず青島(チンタオ)へ6月1日日本軍を上陸させた。戦火が山東鉄道沿線に接近すると日本軍は7月青島から済南に進駐し,青島に新兵力を派兵した。日本軍の出兵に対し両国民政府は内戦への干渉と非難し,中国各地で日貨ボイコットが勃発,拡大した。しかし徐州付近の戦いで蔣介石指揮の国民政府軍が敗退し北伐が中止されたのをみた日本は,8月末山東からの撤兵を声明,翌月撤兵を完了した。
(2)第2次 翌1928年1月,国民革命軍総司令に復職した蔣介石は4月北伐を再開した。田中内閣はただちに山東への再出兵を決定,天津支那駐屯軍から派遣の3個中隊は4月20日済南に到着,一方青島に上陸した第6師団の一部も26日済南に進駐した。北上した国民革命軍も5月1日済南に入城した。3日商埠地で起きた小衝突を機に日中両軍は交戦を開始するに至った。同日日本軍は国民政府外交処主任蔡公時ら16人を殺害し外交問題となった。田中内閣は増援部隊の派兵を決定,日本軍の威信保持のため国民革命軍の膺懲(ようちよう)を決意した。日本軍(福田彦助第6師団長)は7日革命軍責任者の処刑,山東鉄道沿線からの撤退などを含む厳しい要求を12時間の期限付で提出し,8日戦闘を開始,11日済南城を占領した。日本軍の集中砲火により城内では一般市民を主とし5000人にのぼる死傷者を出すに至った(済南事件)。済南城攻撃にみられる日本軍の行動は,居留民保護の範囲を逸脱した革命軍北伐への干渉として,中国の世論はいっせいに日本を批判した。革命軍は済南を迂回して北上を続け6月北京,天津地区を制圧した。第2次山東出兵,とくに済南事件は日本と国民政府間の最大の懸案となった。日中両国はともに相手側の謝罪,賠償を要求し困難な交渉となったが,翌29年3月28日双方の譲歩によりようやく解決,日本軍は5月末山東から全面撤兵した。出兵期間1年1ヵ月,出兵費4140万円に達した。田中内閣の実施した両次の山東出兵は,日本人居留民保護の名目のもとに事実上国民政府による中国統一への干渉出兵となり,日中関係悪化の重大な原因となった。田中内閣は山東出兵,張作霖爆殺事件など中国政策失敗の責任をとり,7月総辞職した。
執筆者:臼井 勝美
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昭和初期に中国での北伐の進展下,田中義一内閣が居留民保護を名目として行った山東半島への3度の派兵。(1)1927年(昭和2)5月の北伐開始とともに,6月1日第10師団約2000人を青島に派遣。北伐の中断後,9月に撤兵。(2)28年北伐の再開とともに国民革命軍が山東省に入ると,4月19日済南・膠済(こうさい)線沿線に第6師団・支那駐屯軍約5000人を派遣。5月3日の小衝突をきっかけに交戦状態に入り,中国側に約5000人の死傷者をだした(済南事件)。(3)事件の拡大をみた内閣は第3師団を動員し,同月11日済南城を占領。革命軍への干渉戦争の性格が強まり,外交交渉の結果29年5月に撤兵を完了した。
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