日本歴史地名大系 「摩国分寺跡」の解説
摩国分寺跡
さつまこくぶんじあと
〔創建〕
薩摩国への仏教の浸透に関しては、持統天皇六年(六九二)閏五月一五日に
〔天満宮勧請〕
薩摩国分寺は応和年中(九六一―九六四)に太宰府天満宮安楽寺の末寺化した(元亨元年七月「薩摩国天満宮・国分寺所司神官等申状」国分文書、以下とくに断らない限りは同文書)。安楽寺は大宰府に所在する菅原道真の廟所で、安楽寺天満宮・天満宮安楽寺などとも称されており、薩摩国分寺の末寺化に前後して天満宮(現菅原神社)も勧請されたらしい。その年を「三国名勝図会」は応和三年としており、薩摩国分寺・国分尼寺・天満宮は一体化していったようである。天養元年(一一四四)七月には国分寺が安楽寺領であることを再確認する官符が下され、これを無視する僧永修の妨げをやめさせることを翌二年正月に薩摩国庁が国分寺留守所に命じている(天養三年、正しくは二年正月日薩摩国司庁宣)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報