摩国分寺跡(読み)さつまこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「摩国分寺跡」の解説

摩国分寺跡
さつまこくぶんじあと

[現在地名]川内市国分寺町 大都・下台

川内川右岸、標高一三メートルの洪積台地に方六町の国府跡があり、その東に隣接して国分寺跡がある。

〔創建〕

薩摩国への仏教の浸透に関しては、持統天皇六年(六九二)閏五月一五日に阿多あたに僧侶が派遣され(日本書紀)、八世紀初頭の段階で薩摩国に国師僧がいたことが確認でき(「続日本紀」和銅二年六月二八日条)、また天平八年(七三六)には一月一四日の金光明経斎会に参加し、さらに薩摩国から食料等を支給されていた一一人の僧侶のいたことがわかる(「薩摩国正税帳」正倉院文書)。同一三年に聖武天皇によって国分寺建立詔が出され(「続日本紀」同年三月二四日条)、天平勝宝八年(七五六)に二六ヵ国の国分寺に灌頂幡などが頒下されたが、そのなかに薩摩国は含まれていないことから(同書同年一二月二〇日条)、薩摩国の国分寺の成立はこれ以降のことと考えられる。これより先、大隅国・薩摩国などは同七年に講師を停止されていた(斉衡二年一一月九日「太政官符」類聚三代格)。薩摩国分寺の建立・維持の財源は大宰府や肥後国に依存した可能性が高く、九世紀前期の「弘仁式」の段階で薩摩国分寺料として二万束の出挙が肥後国内で行われている。承和一一年(八四四)に大隅・薩摩などの国司は「鎮護の助け」を失わず、国分二寺の綱維をつかさどるために講読師の設置を申請し、許可された(同年四月一〇日「太政官符」類聚三代格)。「延喜式」主税寮によれば、薩摩国分寺料二万束の出挙は薩摩国内で行われるようになっており、また同寺十一面観音菩薩灯分料一千五〇〇束・文殊会料一千束の出挙も行われている。

〔天満宮勧請〕

薩摩国分寺は応和年中(九六一―九六四)に太宰府天満宮安楽寺の末寺化した(元亨元年七月「薩摩国天満宮・国分寺所司神官等申状」国分文書、以下とくに断らない限りは同文書)。安楽寺は大宰府に所在する菅原道真の廟所で、安楽寺天満宮・天満宮安楽寺などとも称されており、薩摩国分寺の末寺化に前後して天満宮(現菅原神社)も勧請されたらしい。その年を「三国名勝図会」は応和三年としており、薩摩国分寺・国分尼寺・天満宮は一体化していったようである。天養元年(一一四四)七月には国分寺が安楽寺領であることを再確認する官符が下され、これを無視する僧永修の妨げをやめさせることを翌二年正月に薩摩国庁が国分寺留守所に命じている(天養三年、正しくは二年正月日薩摩国司庁宣)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報