教育・研究媒体の英語化(読み)きょういく・けんきゅうばいたいのえいごか(英語表記)anglicization of the medium of education and research

大学事典 「教育・研究媒体の英語化」の解説

教育・研究媒体の英語化
きょういく・けんきゅうばいたいのえいごか
anglicization of the medium of education and research

21世紀初頭までの半世紀間に,世界の大学で進行した教育・研究媒体の英語化は今後も拡大し,それに伴う教育・文化上の課題の深刻化が予想される。2014年の調査によれば,ドイツ,ブラジル,中国,日本,サウジアラビアナイジェリア等を含む世界55ヵ国のうち8割弱が公立大学での,9割強が私立大学での,教授言語としての英語(English as a Medium of Instruction: EMI)の使用を公認している。2015年現在,ドイツの大学の大半(57校)は複数分野のPh.D. 専攻課程を英語で提供し,中でもゲッティンゲン大学およびミュンヘン大学でのそうした課程数は50にも達する。東京大学も両大学に劣らない数の大学院専攻課程を英語で開設している。自然科学学術論文の言語は,20世紀初頭の欧米の主要国ではドイツ語,英語,フランス語の割合が全体の約34%,30%,26%の順でほぼ拮抗していたが,世紀末には英語の引用文献が60%台,アメリカ合衆国に限れば90%を超え,ドイツ語,フランス語の論文は激減した。現在,世界の自然科学論文の90%以上がは英文であると言われる。

 20世紀後半の英語化は,ドイツ語の衰退と表裏一体をなす。第1次世界大戦に至る半世紀の間,ドイツの大学(英語化)は世界の学術の中心を占め,ドイツ語の習得は研究者にとって死活問題であった。英語への移行は合衆国を中核とする英語圏の経済繁栄と切り離せないであろうが,しかし学問興隆期のドイツが経済的には貧しく,オイルマネーを持て余した現代のアラブ諸国が学術言語としてのアラビア語の普及面で成功していないのも周知の事実である。J. ベン・デヴィッドが解釈したように,個々の領邦より遥かに巨大な言語文化圏の間に分散して所在した19世紀のドイツ大学は,学者の獲得と研究成果面で競争し発展したが,20世紀には飽和状態となり,英米,とくに合衆国の大学に凌駕された。後者に顕著な近代的な市民階級は,応用分野を内包する新時代の科学の導入を容易とし,何よりも独立国家のごとき諸州が,主要な英語国の場合を遥かに超えた規模の言語文化圏の中で,大学間の自由な競争を育んだからである。

 他方,現在の英語化は,ドイツ大学時代との類比では論じきれない問題も孕んでいる。まず,第1次大戦直前のドイツ大学では4000人前後であった留学生数は,2014年度の合衆国およびイギリスの大学では116万人と,約300倍に達している。加えてカナダオーストラリア等への留学生の大半は言うに及ばず,ほかのヨーロッパやアジアの諸国への膨大な数の留学生が英語を媒体として学んでいる。さらに英語圏以外で開催される学術会議や共同研究,発行される学術雑誌の多くも英語を採用している。21世紀の英語には,19世紀のドイツ語に比して,第1言語が英語でない学生・研究者同士での意思伝達の媒体,リンガ・フランカとしての役割が格段に大きいのである。

 こうした事態は,世界の大学を新規な諸課題に直面させている。まず政策立案者と大学人との間の意識のずれが挙げられる。国力の上昇と留学生の大量獲得を目論む為政者は,教育研究の媒体の英語化を大胆に推進しがちである。対して大学人の主要な関心事はEMIにはなく,準備も不十分である。その結果,壮大な机上のプランに比して,にわか作りのEMIはしばしば不完全で,学生の講義内容の理解を阻害する。さらに,留学生総数が400万人にものぼる世界の大学の多くでは,教育研究に用いられる英語の水準,基準自体が問題化する。大学での英米の教養人の英語が模範となるべきなのか。はたまた,第1言語としてよりも,リンガ・フランカとして用いる人口が遥かに多い英語は,他の言語文化を反映して複数の英語へと分化すべきであるのか。

 具体的には,留学生の学位取得の条件として,また英文学術誌への掲載論文の判定において,言語面でのレベルの基準をどこに置くかが深刻な課題となる。英米本位の英語でもなく,リンガ・フランカとして他の言語文化を反映した複数の英語でもなく,科学を中心とした学術活動が醸成する第3の英語,すなわち科学英語ないし学術英語をこそ奨励するべきであるとの意見も根強い。しかし,デヴィッド・クリスタル,D.も指摘するごとく,学術論文も日常言語に大きく依存している以上,その実現を阻む壁は高い(D. Crystal, “English and the Communication of Science”)。したがって最後に,大学の教育研究の英語化は,結局は英米化,グローバル化に名を借りた世界のアメリカ化の一環にすぎないのではないかとの反感ないし批判,英語と伝統文化間の深刻な対立化は避けられない。しかもジェニファー・ジェンキンズ,J.によれば,そうした反感ないし批判は,途上国・非西欧圏からの留学生に顕在化するだけでなく,イギリス以外のヨーロッパ諸国の大学にも強く潜在しているという。教育・研究媒体の英語化は,グローバル化の持つ可能性以上に,文化上の対立の火種となる可能性を十分に秘めているといってよい。
著者: 立川明

参考文献: Ulrich Ammon and Grant McConnell, English as an Academic Language in Europe, Peter Lang, 2002.

参考文献: Julie Dearden, English as a Medium of Instruction: A Growing Global Phenomenon, EMI Oxford, 2014.

参考文献: Jennifer Jenkins, English as a Lingua Franca in the International University, Routledge, 2014.

参考文献: N. Murray and A. Scarino, eds., Dynamic Ecologies: A Rational Perspective on Languages Education in the Asia-Pacific Region, Springer, 2014.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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