人類文化の未発達、未分化の段階にあるとされる社会。歴史的なものとしては、都市文明発達以前の過去の社会をさし、原始社会ともよばれる。また現在も文明の外にある社会も未開社会とよばれる。本項では後者の意味の未開社会を中心に説明する。歴史的なものは「原始社会」の項を参照されたい。ただし、このような単純な定義では問題があり、次節以降で詳説する。
[加藤 泰]
未開人および未開社会は、ここ数世紀にわたって西欧を刺激し続けてきた問題の一つである。この問題をめぐって多くの知的営為が行われてきたし、いまなお続けられている。19世紀に確立されたこの学問分野は、現在、文化人類学とか社会人類学あるいは単に人類学とよばれている(以後は人類学という名称を用いる)。
西欧は長い間、未開人とは何なのか、未開社会と「われわれ」の社会=西欧の関係はどんなものなのかと問い続けてきた。その過程で、人類学はもっぱら未開人や未開社会を対象として研究するという通念ができあがった。現在、人類学が蓄えた未開社会に関する知識は膨大なものであり、われわれはある未開社会について、われわれの隣人のように知ることができる。そのうえ、その社会が未開であればあるほど、人類学者の知識欲も増大するという現象も存在する。
未開社会を研究対象とするのが人類学であるとするなら、人類学者は実際にどんな社会を研究しているのだろうか。たとえば、タイトルに未開の語を用いているよく知られた著作のなかから、ラドクリフ・ブラウン著『未開社会における構造と機能』(1952)とエルマン・サービス著『未開の社会組織』(1962)の2冊を用いて、そのなかで触れられている社会をアトランダムに拾ってみよう。アフリカのアシャンティ、ヌエル、サン、インド洋のアンダマン島民、中国、インドのナヤール、マレー半島のセマン、オーストラリア先住民、インドネシアのミナンカバウ、日本、オセアニアのトロブリアンド島民、ハワイ、アメリカ・インディアン、インカ、エスキモー、古代ローマ等々である。これらの社会に共通のものは何だろうか。人類学者はどのような規準を用いてこうした社会を未開とよぶのだろうか。もちろん、上記の本は未開社会の研究と銘打っているのだから、答えはそこにみつかるはずである。ところが、そこに、未開社会の定義も、どのような点でこれらの社会が他の社会から区別され、ひとかたまりのものとされねばならないかの理由もみいだすことはできない。たとえばラドクリフ・ブラウンの本の序論には、「いわゆる未開なあるいは後進的な民族の研究を意味している人類学」という一節がある。これだけで人類学と未開社会の両方が説明されてしまう。
これはこれらの著作にだけみられる欠陥ではない。一方には、人類学者は未開社会を研究するという定説がある。他方、実際に人類学者が研究対象としてきた社会は上記のリストの何十倍も多様である。もはや、人類学者は未開社会を研究するという命題も、未開社会とは何かという問題も自明のものとはいえないのである。それにもかかわらず人類学者の多くが、未開社会が何であるかはよく知っていることであり、その未開社会を研究するのが人類学なのだという考えを変えようとはしなかった。
しかし、こうした状況はかなりの人類学者によって気づかれてはいる。たとえば、ソル・タックスは、人類学者が未開という語のもとにあげる社会を数え上げ、結局それは「人類学者が研究する」社会のことを意味しているにすぎないように思われると述べている。そして彼は、なぜ未開なのか、と疑問を呈する。彼は、人類学者の研究対象となるさまざまな社会を包括するために用いている未開という語は、まともな概念をもっていないと考える。それは、単に西欧の一部が、過去も現在も含めて世界の残りの人々すべてを一からげにするために採用した便宜的な用語にすぎないのだという。
これまで人類学者は、未開社会ということばにはなにか実質があると素朴に信じて研究してきた。しかし、その実質は明晰(めいせき)に定義されはっきりした輪郭を与えられていたわけではない。人類学者によって実に多様な意味で用いられている。タックスの研究助手ロイス・メドニックが数え上げたところでは、未開という語は23もの違った意味で用いられているという。
そこで、まず未開社会を実体としてとらえ、その実体の本質を明らかにしようという立場から未開の概念を検討してみよう。次に、未開の概念の意味論だけではなく、その歴史的用法をも簡単に考慮しておく必要があるだろう。西欧はどのようにして未開という概念を生み出し、それにどのような位置を与えてきたのかということである。そして最後に、われわれは未開概念をどのように用いることができるかを考えてみたい。
[加藤 泰]
人類学者は、未開社会にはなんらかの共通の実質があるに違いないという、あまり反省を向けられることのない信念をもち続けてきた。しかし同時に、未開ということばそのものは不適切だという考えもまたかなり受け入れられている。というのは、このことばは、進化主義的な偏見、つまり社会は進化するものであり、その結果まだ進化していない劣った未開社会と進化し優れた文明社会とに分化している、という考えと容易に結び付くように思われるからである。そこで、未開社会という用語で指示されるある実体がもっている本質的特徴を明らかにし、それを未開という語にかえようとしてきた。その代表的なものをあげれば、「伝統的社会」「前(非)文明社会」「単純社会」「部族社会」「無(先)文字社会」「冷たい社会」などである。こうした言い換えは、そのまま未開社会とは実は何かという解答の試みになっているので、それぞれについて説明してみよう。
[加藤 泰]
未開社会を基本的には変化のない社会ととらえる考え方である。伝統的とは本来、昔から変わらずに伝えられてきたものをさすが、それが西欧の社会と文化の影響を受けていない、あるいは受ける以前の非西欧社会と文化に用いられるようになったのである。この用語は「アフリカの伝統的社会組織」「○○族の伝統的美術」などと論文のタイトルに頻繁に使われる。伝統的という語の使われ方をみれば、そこに「西欧=近代的=変化・発展的=歴史的」「非西欧=伝統的=停滞・固定的=非歴史的」という二元論的思考が前提とされていることがわかる。
しかし、伝統的といっても完全に「変化のない」「歴史のない」と考えることはできないだろう。そこで、たとえばフランツ・ボアズは伝統的という概念を、西欧を西欧らしくみせている特徴を欠く、としてではなく、より肯定的にとらえている。彼は、未開社会にも当然長い歴史があるが、その過程で生じる変化に抵抗する慣習性や風習をもっていると考えるのである。いいかえるなら、社会が「未開であればあるほど、すべての行為を決定する制約の数が増えるのだ」という。
[加藤 泰]
「文明のない」あるいは「文明以前」という西欧の特徴に負の記号をつける思考のバリエーションである。したがってまず文明の要件が明らかにされねばならない。文明社会との対照によって未開社会の特質を明らかにしようとした人類学者にロバート・レッドフィールドがいる。彼は『未開世界の変貌(へんぼう)』(1953)のなかで比較的まとまった考察を行っている。彼はチャイルドに倣い、文明を都市が成立したことによって出現したものとし、それと同時に国家、公共事業、市場、文書などが生み出されたと述べる。それに対して、未開社会は小規模で孤立し、同質的で自足的であり文字をもたないととらえる。レッドフィールドはこのような未開社会がどのように文明社会へと変貌していくのか論じている。未開社会についてのこれらの特徴は現代のかなりの人類学者が共通に抱いている通説であり、多くの教科書にもこれに類したことが書かれている。
[加藤 泰]
未開社会について広く受け入れられている信念の一つが、近代社会は複雑であるが未開社会は単純だ、というものである。しかし、何が単純なのかは見かけほど単純ではない。ラドクリフ・ブラウンの前掲書に現れる未開社会の二つ目の定義が「単純社会」である。しかし、これもまた定義というよりはむしろ単なる言い換えで、何が単純かということは自明であるかのように扱われている。社会を構成要素に分解したとき、その要素の数が少なく要素間の関係がはっきりしているとき、その社会が「単純」だといっているようである。その特殊な例として、分業が発達していないということは未開社会の特質としてしばしばあげられる。もちろん分業がまったく存在しない社会はないといってよい。とくに男女の分業および年齢に基づく分業はすべての未開社会にもみられる。しかし、こうした未開社会における分業は次のような性質を帯びている。阿部年晴(としはる)によれば「いずれの分野の専門家も、他の人々と同じ場所に住んで日々顔を合わせ、生業をともにし、さまざまな社会的機能を遂行する場で活動と経験をともにしているのである」。
[加藤 泰]
個々の未開民族を呼び表すためにもっとも頻繁に用いられているのが「○○族」という名称である。この「族」は部族を意味している。部族という語も、文明社会を構成する明確な制度を欠いた社会、というような漠然としたイメージで用いられることが多い。部族とは何かについての共通の理解が存在しているわけではない。マーシャル・サーリンズは未開民族のかわりに部族民という用語を用いているが、それは「共通の起源と慣習をもち独自の領土の所有と支配を行う一群の人々」をさすという。さらに部族は、社会構成上の特性、つまり分節性によって近代国家の国民とは区別される。分節性とは次のような事柄を意味している。部族社会の家族は地縁的リネージ(系族)に、リネージは村落共同体に、村落は地域連合体にと次々に包接され、地域連合体が部族を構成するのである。こうして部族は社会集団のピラミッド、あるいは分節のヒエラルヒーとして現れるという。
[加藤 泰]
伝統的社会や部族社会にかわってよく用いられるようになったのが無文字社会ということばである。たとえばジョージ・ホマンズは、未開民族ということばは不適切であり、「無文字(読み書きをしない)」民族とよぶほうがよいと主張する。しかし、文字がないということは社会の成り立ちそのものについてなにかを意味するわけではない。そこでホマンズはこうした社会には、ほかの共通の社会組織に関する特徴が存在すると考える。つまり、ホマンズによれば「これらの社会では現代のいかなる西欧社会にも比して、多くの活動が親族の原理によって成員権が決められる組織によって遂行されるのである」という。
しかし、これでは、未開社会が他の社会から区別されるのが、文字をもたないことによるのか、あるいはむしろ親族組織が社会構造のなかで大きな位置を占めることによるのか(それともその両方によるのか)よくわからない。ジャック・グディは、社会の成り立ちそのものにかかわるどのような指標を選ぼうと、人類の社会を二群に分けることはできないと考えるが、文字をもたないということに特別の意義をみいだしている。というのは、書字法をもつかもたないかということはコミュニケーション様式の決定的な違いを生み出すと考えるからである。グディは『未開と文明』のなかで、人間社会の知識や認識や思考にかかわる制度にとって書字法がどのような意義をもつか検討し、未開社会の特質とされる「非合理性」とか「前論理」とかいわれてきたものが、「未開人の心性」にではなくコミュニケーション体系に関与していると論じている。
[加藤 泰]
これは、未開社会と文明社会を人類史の発展段階の先後関係においてとらえることを拒絶するレビ(レヴィ)・ストロースによって提出された概念である。彼によれば、冷たい社会とは内的構成が規則的で調和的であり、できごとが構造の内に絶えず吸収されるような社会である。したがってその歴史は反復的であり、変化は最小にとどめられる。その対概念が「熱い社会」で、そこではできごとがつねに構造を変えてゆき、累積的な歴史が現れるのである。この概念が社会の成り立ちにかかわるとすれば、それに対応する思考様式をも定式化している、とレビ・ストロースはいう。それは具体的、呪術(じゅじゅつ)的、神話的思考で、熱い社会の「飼いならされた思考」に対して「野生の思考」とよばれる。
[加藤 泰]
未開社会はprimitive societyの翻訳である。このことばは原始社会とも訳される。つまり、primitive societyは非西欧社会をさすだけではなく、時間的に「最初の」「始まりの」社会をも意味している。primitiveの語源はラテン語のprimitivusで「先に生まれたもの」を表している。しかし、非西欧社会がつねに「先に生まれた」社会と結び付けられていたわけではない。いいかえれば、primitiveという語は、つねに未開という意味で用いられてきたのではない。
どのような民族であれ、自民族以外の人々を位置づける理解の枠組みをもっており、たとえばギリシア人はそうした他者をバルバロイ(わけのわからないことばを話す者)とよんでいたことはよく知られている。異民族や辺境に住む見知らぬ人々がそもそも「人間」であるかは明らかではないし、むしろ人間の概念が本来自民族をさすものなのである。人間の概念に包摂されない他者は必然的に怪物性を帯びることになろう。中世ヨーロッパではこの怪物性を帯びた他者が、森に住む「野生人」「野蛮人」wild man, savageとして現れる。wildもsavageも本来は「森」を意味する語である。この野蛮人の観念が、15~16世紀大航海時代に入り空間的認識を拡大した西欧の視野に入ってきた非西欧社会の住民たちと結び付けられるのである。
これら西欧によって「発見」された住民たちが、「犬の頭をもった人間」とか「しっぽのある人間」「女人族」とか「食人種」であることをどうにか脱したとしても、「野獣の皮をまとい、生肉を食らい、わけのわからぬ言語を話す」ことや、「色は煤(すす)けて黒っぽく、髪は黒く、ことばは話すが、宗教はもたない」ことにより、彼らは西欧人より劣った、つまり「完全な人間ではない」存在だった。実際、アメリカ・インディアンが人間か人間でないかという問題が1550~51年スペインのサラマンカ大学で公式に論じられたという。
異民族、つまり「われわれの世界の外部」=「異界」の住民は、一方でキリスト教との関連で、他方では啓蒙(けいもう)主義哲学との関連で時間のなかに位置づけられた。しかし、その時間は二つの相反する性質を帯びることになった。一つは先に進めば進むほど高く優れたものになる時間であり、もう一つは始まりこそが完全で、先に進めば進むほど堕落していくような時間である。前者は19世紀に進化主義として確立される進歩的時間意識であり、後者はルソーに典型的にみられるような退歩的時間意識である。
ルソーの「高貴な野蛮人」の残像は、現在のわれわれの未開社会観にも認められないわけではないが、はるかに強力に作用しているのが進歩的時間意識、あるいは社会進歩の観念である。こうして、「異界」の「野蛮人」は「先に生まれたもの」の残存としての未開人になったのである。つまり未開人は他者であると同時に祖先でもあることになる。このような、未開社会をもって西欧もまたはるか昔にそこから出発してきた人類の始原の姿の名残(なごり)とみなす考えは、19世紀に人類学という学問が成立する過程で確立された。
このいわゆる進化主義的人類学のなかでもっとも広範な影響を及ぼしたのはルイス・モルガンであるが、彼は全人類史を「野蛮」「蒙昧(もうまい)」「文明」の三段階を経る直線的過程と考えた。人類学ではこの段階説はもはや説得力をもたないが、モルガンが野蛮や蒙昧とラベルをはった社会、そして文明のなかでも西欧によく知られていなかった社会はやはり一括されて未開とよばれてきたのである。
[加藤 泰]
これまで、未開社会という概念のはらむ問題について次のような事柄をみてきた。
〔1〕未開社会概念はあいまいで多義的である。
〔2〕多様な意味のなかから、未開社会の本質として一つないし複数の意味を取り出し、他の用語に置き換えて用いられることが多い。
〔3〕そのあいまいさにもかかわらず、未開社会という語は思想史のなかで占めてきた位置から依然として用いられている。
このような事柄を踏まえたうえで、未開社会という語に対してどんな態度をとることが可能だろうか。あくまで未開社会の本質を探そうとする立場にたたないとするなら二つの可能性がありそうだ。エドマンド・リーチは、未開社会に特徴的なものと考えられてきた「等質的」「分節的」「神話的」という三つの特性を検討して、これらを無批判に受け入れることはできないこと、そうした特性がみいだされるにしても、それで文明社会と未開社会を分けることはできないと主張する。彼の意見では、未開社会のあるものはこのモデルにたいへんよく当てはまるが、他の社会には当てはまらない。したがって、文明社会と未開社会の間には、「構造においても、形態においても、意味のある不連続性は存在しない。社会人類学者は自分の求めているものをどちらの社会にもみいだすことができるのである」という。
リーチの立場は、未開社会という実体が存在しないというだけではなく、そこにどのような概念を与えるにせよ、文明と未開という二項的モデルを採用するメリットはない、というものである。しかし、文明と未開という概念的モデルを用いることに積極的意義をみいだそうとする立場もある。たとえば、阿部年晴は未開社会を次のようにモデル化する。「未開社会とは、比較的小規模な集団が、経済、政治、文化などの社会的機能において、相対的な自給自足性と自律性と完結性を保っているような場合を指す」。そこでは分業や支配―被支配の関係は発達しておらず、構成要素の数は少なく、その関係は単純である。こうした特徴は個別にみれば連続的で相対的なものであるが、同様に構成される文明モデルと対(つい)になって人類の多様な社会を理解する際の枠組みを提供しうるという。われわれはあらゆる社会のなかに文明と未開をみいだすこともできるわけである。
未開社会という概念をめぐってどんな理解と態度が可能か、これからも多くの議論が重ねられるだろうが、このことは人類学という学問のあり方と深くかかわっている。忘れてならないのは、われわれは未開社会を理解しようとしてきたのではなく、他者を理解しようとしてきたということである。この他者性は歴史的に未開と結び付きはしたが、他者が存在し、そこに差異が現れるとき、理解が要請される。それにこたえるのが人類学であろう。
[加藤 泰]
『阿部年晴著『未開と文明』(石川栄吉編『現代文化人類学』所収・1978・弘文堂)』▽『ジョルジュ・シャルボニエ著、多田智満子訳『レヴィ=ストロースとの対話』(1970・みすず書房)』▽『ジャック・グディ著、吉田禎吾訳『未開と文明』(1986・岩波書店)』▽『エドマンド・リーチ著、長島信弘訳『社会人類学案内』(1985・岩波書店)』▽『エドマンド・リーチ著、青木保・井上兼行訳『人類学再考』(1990・思索社)』▽『エルマン・サーヴィス著、松園万亀雄訳『未開の社会組織』(1979・弘文堂)』▽『マーシャル・サーリンズ著、青木保訳『部族民』(1972・鹿島出版会)』▽『ラドクリフ・ブラウン著、青柳真智子訳『未開社会における構造と機能』(1975・新泉社)』▽『ロバート・レッドフィールド著、染谷臣道・宮木勝訳『未開世界の変貌』(1978・みすず書房)』▽『川田順造編『「未開」概念の再検討Ⅰ, Ⅱ』(1989、91・リブロポート)』▽『Franz BoasRace, Language, and Culture (1888, Macmillan, New York)』▽『George HomansThe Human Group (1950, Macmillan, New York)』▽『Sol Tax & Lois Mednek“Primitive” peoples (1960, Current Anthropology,Vol.1)』
社会科学とくに人類学(文化人類学)が伝統的に研究対象としてきた諸社会は,(1)文字言語の欠如,(2)比較的に単純な技術段階,(3)組織構成が複雑化していない,(4)成員数の規模が小さい,(5)比較的に孤立している,(6)伝統の規制が強く,変化がゆるやかである,などの点で共通した性格をもつため,これらを一括して未開社会と呼ぶことがある。しかしながら上記の諸特徴は,いわゆる文明社会と対比させた場合にのみ列挙されうるものであり,またいずれも文明と未開を区別する厳密な基準とはなっていない。個々の社会にあてはめれば,たとえば文字の使用を欠いたインカの大規模な統一国家のように,いくつもの例外を認めねばならない。なによりも,未開として一括される諸社会は相互に異質で多様であるが,その内容と性質はこの場合にはいっさい考慮されていない。
〈未開社会〉は〈父系社会〉〈農民社会〉などの語と同じように,記述・分類上の名称であるが,個々の対象社会を直接・間接に文明と対比させた場合にのみその内容は明確となる。事実,世界に分布する諸社会の未開性がもっとも問題にされ,関心をもたれたのは,19世紀後半の進化,発展主義の思潮のなかで形成された人類学の初期段階においてであった。人類学の祖と目されるL.H.モーガンやE.B.タイラーは研究対象の未開社会を体系的に扱った人々の代表であるが,両者の学説の中では,人類社会はより高度の完成へ向かう一系的な進化の過程をたどると仮定され,未開社会は,西欧文明社会を頂点とした発展過程の諸段階を,なんらかの理由で残存,保持してきたと想定された。したがって,未開社会の様態の研究は人類史の諸段階を復元するためのものであり,発展を野蛮,未開,文明の3段階で捉えようとしたモーガンは,現存する社会の未開状態を低度の発展段階にとどまった人類の遺物とみなしたのであった。タイラーは,未開・野蛮状態を人間成長の幼児期にたとえ,文明人が未開人に比べてより賢明で能力的にすぐれていると主張した。このような人類史の低度の段階に諸社会を位置づけるとらえ方は,大航海時代以後の異民族に関する経験と知識の蓄積のされ方,さらには啓蒙期の合理主義,科学主義を背景としており,諸社会は,有名なタイラーの文化の定義にもうかがえるように,西欧社会との共通性ゆえに人類社会として位置づけられたが,異質性,奇異性のゆえに,遠くへだたった過去の状態に比定された。
今日では19世紀の一系的な発展を前提とした進化論そのものは否定されたが,文明社会に一定の基準を求めるかぎり,現存の諸社会を発展系列に位置づけることは可能であり,たとえば個々の社会の成員1人あたりの捕捉エネルギー量で発展段階をはかったり,社会・文化統合原理の多様化,複雑化の程度を基準にして,系列化をはかることもできる。こうした系列化の場合には,諸社会が,未開と呼ばれるか否かにかかわらず,文明社会とは反対の極に位置づけられることになる。しかしながら既成の概念と価値基準によって記述された結果として登場した諸社会の未開性に対して,今日の人類学はあまり興味を抱かず,したがってまた文明との関連での諸社会の系列化にもあまり意義を認めていない。今日の人類学では個別社会の全体的,文脈的把握を通じて社会の機能,構造,過程などを理解することに関心が集まっており,これは相対主義,歴史主義,普遍主義への志向いかんにかかわらず,共通している。こうした場合には,未開は〈劣った〉とか〈遅れた〉とかを意味するようになり,ときには誤った人種論とも結びつきかねない〈未開社会〉という用語は,一般に使用を避けるような配慮が働いており,この語を用いるときには〈いわゆる〉とか引用符つきの留保をしていることが多い。あるいは部族社会,民俗社会,無文字社会などの代替語を用いている。しかしながら,このような配慮は,〈未開〉によって指示された社会の側に生ずる反感を避け,あるいは通念化した〈未開〉と区別する意義はあっても,対象となる諸社会それ自体の内容や性質を規定したことにはならない。
→人類学 →文化人類学
執筆者:友枝 啓泰
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…それらは人種,言語,文化(生活様式と価値体系など)を共有する人間集団とされているが,部族はこの3者に加えて特定の地域に居住する人々という限定をおくのが普通である。未開社会,つまり単純な技術と経済をもち,生業の分化も少ない,比較的小地域に編成されている社会を,文化人類学では部族社会として一括してきた。しかしその中には極北のエスキモーやカラハリ砂漠のサンのような狩猟民から,かなり高度な政治組織をもつ東アフリカのアンコーレ王国,あるいは北米のインディアンのイロコイ連合のような社会まで,多様なものを包括していた。…
※「未開社会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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