文法学校(読み)ぶんぽうがっこう

大学事典 「文法学校」の解説

文法学校
ぶんぽうがっこう

[誕生と性格]

中世イギリスに誕生した,主としてラテン語(文法)を教える学校。文法学校(scolae grammaticales)と呼ばれるゆえんであり,この言葉は14世紀以降,広く用いられるにいたった。ある地域に住む少年を対象に無償で教育を施す目的で,高位聖職者などの有志篤志家によって創設された。ラテン語は大学や教会で使用されるヨーロッパ共通の言語であり,その習得は大学への進学を志す者や教会関係の仕事に従事する者には不可欠であった。初期中世に体系化された七自由学芸(seven liberal arts)は大きく言語系の三学四学(trivium:ラテン語文法,論理学,修辞学)と数理系の四科(quadrivium:算数,幾何学,天文学,音楽)に分けられるが,ラテン語文法はそれらの中でもっとも予備的・入門的な知識,さらには形而上学や神学といった高度な学問に通ずる知識全体の基礎として位置づけられた。文法学校(グラマー・スクール)は,19世紀後半から20世紀初頭にかけて整備される複線型学校体系の中で,大学へと通じる大学進学準備校(下構型中等教育機関)として位置づけられ,フランスのリセやコレージュ,ドイツのギムナジウムと同様,イギリスにおけるエリート養成の一翼を担うことになる(グラマー・スクールの中から寄宿制のパブリック・スクールが発展する)

[近世から近代へ]

16世紀には,ヘンリー8世による修道院の解散とその没収財産に基づいて一連の文法学校の新設と再編が行われ,文法学校はかつてない隆盛をみた。全国各地にKing's schoolsなかんずくエドワード6世文法学校が設立された。また,その一方で,ロンドンにはルネサンス新学芸を導入したセントポール校(ウィリアム・リリー,W.が初代校長),ウェストミンスター校,マーチャント・テイラーズ校が創設された。1558年から1685年の間に少なくとも計358の文法学校が裕福な商人などを含む篤志家によって新設されたという。まさに「教育革命」と呼ぶにふさわしい現象であった。その背景には地主層であるジェントリーの勃興と,子弟にジェントルマンにふさわしい教育を施したいというかれらの願望があった。文法学校を経てオックスフォード大学あるいはケンブリッジ大学への進学というジェントルマン教育のかたちは,この時代に形成されたものであった。

 ルネサンス以降,文法学校でのカリキュラムには一部ギリシア語も導入されるようになったが,依然としてラテン語がその中核を占め続けた。多くの文法学校での教育は,ひとつの教室で一人の教師がおそらく一人の助教の助けを借りて,テキストを暗記するという中世以来のかたちで行われた。毎日長時間に及ぶ学校生活やむちによる体罰も一般的であった。だが,宗教改革を契機にカトリックであれプロテスタントであれ,学校教師になるためには司教あるいは主教による認可が必要とされたし,またラテン語のテキストも標準化されて,エラスムスコレットリリーが編纂した『Royal Grammar』にとって替えられた(1540-42年)。一部の革新的な学校では教授法に関しても新たな方法が採用された。

[再編と改革]

18世紀に文法学校は多様化した。イートン校やウェストミンスター校のような全国から生徒を集めてエリートを輩出する学校,地域に根ざし地元出身の生徒をオックスブリッジに送る学校(ハル・グラマー・スクールやマンチェスター・グラマー・スクールなど),地元の通学生を教育して商業アカデミーや徒弟訓練へと送りだす学校などである。一方,基金の価値の下落や古典語教育に対する需要の低下そして種々の私営学校との競争のなかで,閉校や初等学校への転換を余儀なくされた学校もあった。学校の名称も「グラマー・スクール」以外に「フリー・スクール(イギリス)」「パリッシュ・スクール(イギリス)」「パブリック・スクール」などさまざまな言葉が区別されることなく同義で用いられた。

 文法学校は有志篤志家の寄付によって創設された「基金立文法学校(endowed grammar school)」であり,その運営は創設規約に基づいて理事会が行った。だが,創設者の意図を体現する創設規約は時に,時代の変化に応じた学校経営の障害となり,理事会と校長との間で軋轢や対立が生じた。創設規約の遵守を是としたエルドン判決(1805年)などを経て,文法学校で数学やフランス語など伝統的な教科以外の知識を無償で教授することが可能になったのは1840年のことである。

 ヴィクトリア時代には2度にわたる王立調査委員会の実態調査に基づく基金立文法学校の大々的な再編が行われた。ラグビー校やハロー校など「9大パブリック・スクール」が特定され(1864年のクラレンドン委員会),また,それ以外の学校についても分類・性格づけがなされた(1868年のトーントン委員会)。その後,1902年教育法の下で公立の中等学校が設立されることになったが,その際グラマー・スクールがその範型(規範的教育機関)とされた。1940年代中葉から1960年代後半にかけて存続した三分岐型中等学校制度(イギリス)(生徒が進学する学校は11歳時に実施される試験の成績によって決定される)の下でも,グラマー・スクールは大学進学へと通じるアカデミックなカリキュラムを提供するエリート中等学校として位置づけられた。三分岐型中等学校制度は1960年代から1970年代に多くの地方教育当局において無選抜の総合制中等学校制度へと移行し,グラマー・スクールの多くは総合制中等学校(コンプリヘンシブ・スクール)に統合されるか閉校となった。一方,三分岐型に留まった地域のグラマー・スクールは,授業料を課す私営の「インディペンデント・スクール」となる道を選択して今日にいたっている。
著者: 安原義仁

参考文献: 藤井泰『イギリス中等教育制度史研究』風間書房,1995.

参考文献: 宮腰英一『十九世紀英国の基金立文法学校―チャリティの伝統と変容』創文社,2000.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の文法学校の言及

【ローマ】より

… ローマの学校制度は完全にギリシアの影響を受けて発展した。各地に初等学校が設立された後,次々とギリシア語とラテン語の文法学校や修辞学校が開校された。ローマはギリシア語・ラテン語併用国家であり,生徒たちは両国語の学校に通った。…

※「文法学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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