斎藤村(読み)さいとうむら

日本歴史地名大系 「斎藤村」の解説

斎藤村
さいとうむら

[現在地名]院内町斎藤

恵良えら川の上流域、支流の院内川が合流する山間部に位置し、院内谷の入口にあたる。北は原口はるぐち村、南は上納持かみのうじ村。元禄豊前国絵図によると恵良川に沿って中津城下と豊後国玖珠くす郡を結ぶ往還が村内を南北に走る。年未詳九月五日の大友持直安堵状案(富来文書)によれば、「豊前国宇佐郡内斎藤上総介入道跡事」が、富来彦三郎に安堵されている。斎藤氏は当地に居住し、初め大内氏、のちに大友氏に属したという。永正八年(一五一一)五月三日の斎藤益実書状(恵良文書)によれば、斎藤氏の先祖は「小河内上下両屋敷分」を長寿ちようじゆ寺に寄進している。

小倉藩元和人畜改帳では斎藤村・了戒りようかい村・下納持村の三村に分れて記され、三村合せて高三二九石余、家数二七・人数一一九(うち百姓八・牢人四・名子一一・鍛冶四)、牛一一・馬三。


斎藤村
さいとうむら

[現在地名]三春町斎藤

西方にしかた村・鷹巣たかなす村・沼沢ぬまのさわ村の南、大滝根おおたきね川の北岸にあり、江戸への参勤道(県道須賀川―三春線)に沿う。馬上田向田ばじようだむかいだに応長二年(一三一二)二月建立の向田供養塔がある。観応三年(一三五二)五月一五日の足利尊氏御教書(国魂文書)によれば、「田村庄斎藤村」の地頭職が国魂新兵衛尉に与えられた。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢(仙道田村荘史)では西藤、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)では斎藤と記し、いずれも紀州熊野新宮への年貢は一町・七〇〇文である。


斎藤村
さいとうむら

[現在地名]西尾市斎藤町

市の南に位置、旧弓取ゆみとり川の東岸に連なる自然堤防上に集落がある。北は須脇すわき村、東は十郎島じゆうろうしま村、南は野々宮ののみや村、西は熱池にいけ村に隣する。村名の由来について「三河志」は「斎藤は斎戸村といはざるか、戸は借字にて処の意也、こは神祇官斎院のことにて、八柱の神たちを斎き祭る処なる故に斎戸といふとあれば大嘗会の悠紀たるによりて其の地を斎戸といふかとも思はる」と記し、この頃の起源と考えられる若宮わかみや八幡社について、天正(一五七三―九二)の頃、織田信長上道目記かみどうめき明台みようだい(恵験寺)焼払いの時滅ぼされた当地の豪族斎藤太郎左衛門が黒蛇となって諸人を悩ましたのを、当地の神谷藤五郎が退治しその霊を同社に合祀したとの言伝えがある(八幡宮伝説)


斎藤村
さいとむら

[現在地名]扶桑町斎藤

北は南山名みなみやな村、東は高木たかぎ村、南は柏森かしわもり村、西は和田勝佐わだかつさ(現江南市)に接する。慶長一三年(一六〇八)九月七日の検地帳(斎藤区有)には「尾張国丹羽郡前利村」とあり、「寛文覚書」では「斎藤村」と記す。「塩尻」は「今の俗、斎藤村と称するは訛伝」とし、村の伝承では、慶長年間に疫病が流行したとき、村名が神名の前利さきと神社と同一であることへの神の怒りであろうと、「キ」を「イ」に改めて「斎藤」と記すようになったという。「和名抄」高山寺本の「前力郷」、東急本・元和古活字本の「前刀郷」はともに訓を欠くが、「延喜式」神名帳九条家本に「前利サキトノ神社」とある。「利」「刀」ともに上代特殊仮名遣の「と甲類」で同音である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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