長野県中央部にある市。2005年4月旧塩尻市が楢川(ならかわ)村を編入して成立した。人口6万7670(2010)。
塩尻市北部の旧市。1959年塩尻町,片丘村,広丘村,宗賀村,筑摩地村が合体,市制。人口6万4128(2000)。松本盆地の南端,松本市の南隣りにあって,松本市の衛星都市として最大の規模をもつ。両市の市街地は国道19号線に沿ってほぼ連続している。また中山道の塩尻峠を通じて諏訪地方との交流も深く,現在では同地からの工場進出が著しい。江戸時代の塩尻宿は明治に入って衰えたが,1902年篠ノ井線,06年中央東線,11年中央西線の開通とともに駅前集落が発達し,現在の中心市街を形成した。長野自動車道が通じ,国道19号線と20号線との分岐点にも当たり,交通の要衝になっている。工業では精密機械,電気部品の製造が発達し,農業ではブドウ,リンゴ,ナシ,レタスなどの栽培が盛んで,ブドウ酒,ブドウジュースなどの特産品もある。市内には縄文時代,古墳~歴史時代の複合遺跡平出遺跡があり,平出博物館が設けられている。草競馬(8月)やレンゲツツジ(6月)の名所として知られる高ボッチ高原や桔梗ヶ原のブドウ狩りは有名である。
執筆者:市川 健夫
塩尻郷は平安末期からの国衙領であるが,郷内は塩尻峠に端を発する田川によって東条,西条に分かれていた。史料上の初出は西条が早く,1191年(建久2)捧紀五近永が諏訪下社領の年貢などを怠り社家から訴えられている。東条も1323年(元亨3)地頭塩尻次郎重光が諏訪下社の神役用途を抑留して社家から訴えられている。諏訪大社は信濃国の一宮として国衙の支配が強く,それが塩尻郷が下社領となった要因であろう。塩尻重光は塩尻郷の開発領主の系統とみられ,居館は堀ノ内にあり,近くに五日市場がある。南北朝時代から守護小笠原氏が塩尻を領有するが,1400年(応永7)長秀はこれを下社に寄進した。塩尻郷は府中に近いうえ,府中と諏訪地方を結ぶ塩尻峠や桔梗ヶ原を眼前にひかえていたので,南北朝~戦国時代にはこの付近でしばしば大きな合戦が行われた。
執筆者:湯本 軍一 近世には中山道の宿駅として繁栄した。塩尻宿は上町,中町,下町の3町からなり,中町に本陣,脇本陣,問屋が置かれた。1651年(慶安4)の検地帳には宿並5町40間,家数119軒とあるが,その後発展し,1843年(天保14)調べの《宿村大概帳》には宿並7町28間,家数166軒,人口794人。本陣2,脇本陣1,旅籠屋75軒とある。宿定人馬は50人・50匹。本陣の川上家(建坪367坪)は中山道最大の規模を誇った。
執筆者:大竹 達男
塩尻市南部の旧村。旧木曾郡所属。人口3619(2000)。信濃川の源流奈良井川上流域を占め,木曾谷の北の入口にあたる。1889年奈良井と贄川(にえかわ)の2村が合体,両者の名をとって楢川とした。中世は木曾氏の領地,近世は尾張藩に属し,奈良井,贄川は中山道(現,国道19号線)の宿駅であった。村の西端には街道の難所鳥居峠がある。全域が山林・原野で,中心集落の平沢では伝統的な漆器製造が行われ,漆器と関連木工業に従事する者が全就業者の半数に達する。シイタケ栽培も行われる。重要伝統的建造物群保存地区に指定された。奈良井では往時の町並みが保存され,贄川には関所が復元されている。また北端の桜沢には〈是より南木曾路〉の石碑が残る。JR中央本線が通じ,北隣の旧塩尻市との経済的結びつきが強い。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
長野県中央部にある商工業都市。松本盆地の南端に位置する。1959年(昭和34)塩尻町と広丘(ひろおか)、片丘、筑摩地(ちくまち)、宗賀(そうが)の4村が合併して市制施行。1961年洗馬(せば)村を編入。2005年(平成17)木曽(きそ)郡楢川村(ならかわむら)を編入。三方を筑摩山地や木曽山脈の山々に囲まれ、標高700メートル前後の桔梗ヶ原(ききょうがはら)とよばれる火山灰台地上に市の中心部があり、台地上を木曽谷から北流する奈良井(ならい)川や、田川が貫流する。古くから諏訪(すわ)と松本、松本と木曽谷、あるいは諏訪と木曽谷を結ぶ交通の要地で、近世は中山道(なかせんどう)と、伊那(いな)谷を北上する三州街道、善光寺参詣(さんけい)の北国西街道(ほっこくにしかいどう)などが合流し、中山道の宿場として塩尻、洗馬、本山(もとやま)、贄川(にえかわ)、奈良井(ならい)の5駅と、北国西街道の郷原(ごうはら)駅が置かれた。現在はJRの中央本線と篠ノ井線(しののいせん)、国道19号と20号および153号の交点になっている。また長野自動車道が通り、塩尻と塩尻北のインターチェンジがある。塩尻駅は1982年に旧駅舎の500メートル北方へ移動新築された。中心集落は、中山道の旧塩尻宿の地区と、1902年(明治35)の篠ノ井線の開通で設置された塩尻駅の駅前集落に分かれ、駅前が中心商店街をなす。桔梗ヶ原の西部は戦国時代に武田氏と小笠原(おがさわら)氏の戦場であった地で、明治になって入植開拓されたが、現在は県下第3位のブドウ産地である。ぶどう酒工場のほか、諏訪盆地からの精密工業の進出もみられる。
宗賀地区の平出遺跡(ひらいでいせき)は縄文中期から奈良時代までの住居跡で、国指定史跡。出土品を展示する平出博物館がある。中山道沿いの堀内家住宅は18世紀後半、片丘地区の嶋﨑家住宅は17世紀の、ともに本棟造の民家で国の重要文化財。ほかに塩尻宿の旅籠であった小野家住宅、片丘の小松家住宅も国指定重要文化財。郷原宿にも本棟造りの家並みが残る。東部の高(たか)ボッチ山一帯は高原をなし、八ヶ岳(やつがたけ)中信高原国定公園の一部。なお、塩尻という地名は長野県下にいくつかあるが、太平洋と日本海の両方から運び込まれる塩の道の終点(尻)にあたるところからつけられたという。面積289.98平方キロメートル(一部境界未定)、人口6万7241(2020)。
[小林寛義]
『『わたくしたちの郷土塩尻市』(1966・塩尻市)』
江戸中期の随筆。170巻以上が現存すると思われる。天野信景(さだかげ)(1663―1733)著。1697年(元禄10)ごろから1733年(享保18)に執筆され、原本は1000巻に及ぶともいう。著者は尾張(おわり)藩士で、博学の国学者として知られ、その合理主義的な学風は、吉見幸和(よしみよしかず)ら当代の尾張(愛知県)の学者や文人はもちろん、平田篤胤(あつたね)らにも大きく影響した。本書は、有職故実(ゆうそくこじつ)を中心に広範囲な分野にわたる和漢の典籍や自己の見聞を抄録し、自らそれらを考証、論評したもので、豊富な内容とともにその実証的な方法論が注目される。著者自身が「人の見るべきにあらず、只(ただ)閑暇遺忘に備ふ」というように、その草稿は反故(ほご)紙などに書き散らしたもので、散逸が甚だしくて完本はないが、1782年(天明2)名古屋の書林西村常栄が出版の目的で編集した百巻本のほか、数種の写本が伝わる。
[宇田敏彦]
『『日本随筆大成 第3期 13~18』(1977~78・吉川弘文館)』
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