新十津川村(読み)しんとつかわむら

日本歴史地名大系 「新十津川村」の解説

新十津川村
しんとつかわむら

[現在地名]樺戸かばと新十津川町字美沢みさわ・字大和やまと・字士寸しすん・字中央ちゆうおう・字弥生やよい・字花月かげつ・字総進そうしん・字学園がくえん・字吉野よしの・字幌加ほろか・字トップ

明治二三年(一八九〇)から昭和三二年(一九五七)まで存続した樺戸郡の村。奈良県十津川村(十津川郷)からの入植により開拓された。郡中第一の大村増毛ましけ道路が縦断し、石狩川には滝川停車場(現滝川市)に至る渡船場(官設)と砂川停車場(現砂川市)に至る渡船場があった。当地一帯はトックと称されていた。「ク太」には昔時よりアイヌ部落があったという(状況報文)。明治九年松本十郎が石狩川を探検した際、トックに宿泊し、樺戸太かばとぶとに向かった。トックはメム(現妹背牛町)から四里ほどのところにあり、五戸・一七人が居住。対岸は空知川で幅一〇〇間ほど、石狩川右岸のトック川は一四、五間などと報告している(石狩十勝両河紀行)

明治二二年八月、奈良県吉野郡十津川村民が未曾有の大水害に遭った。八月一七日から同月二〇日まで豪雨に襲われ、死者一六八人、全壊・流失家屋四二六戸、半壊家屋一八四戸、耕地の冠水・流失二二六町余にのぼり、山林も甚大な被害を受けた。そこで六〇〇戸・二千六九一人が北海道に集団移住を決意した(新十津川百年史)。新十津川に農業適地があることを知らせたのは、上京して華族組合農場の説明をしていた殖民地撰定測量技師の柳本通義であった(柳本通義の生涯)。北海道庁と奈良県は内閣に十津川村民の移住費として一七万五千七四一円の交付を願出て同年一〇月に認められ、移民保護として各人二年間の味噌や小屋・農具種子が給与されることとなった(状況報文)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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