デジタル大辞泉
「羽州街道」の意味・読み・例文・類語
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うしゅう‐かいどうウシウカイダウ【羽州街道】
- 江戸時代、奥州街道の桑折(こおり)から分かれ、山形、秋田を経て青森に至る五十八次の脇街道。秋田街道。
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羽州街道
うしゆうかいどう
福島で奥州街道より分れ、米沢・山形・新庄を経て現秋田県域に入り、青森に至る街道。ただし「梅津政景日記」によって元和五年(一六一九)および七年の上府ならびに帰国経路をみると、天童(現山形県天童市)より笹谷峠(山形・宮城県境)を越えて仙台藩領白石(現宮城県)で奥州街道へ出ている。秋田藩主の参勤交代も同様であったが、のちには山形より山中七ヶ宿街道を桑折(現福島県)に出る道が選ばれている。
秋田領内の経路は、南は院内境目の杉峠(山形県境)から北は長走境目矢立峠(青森県境)まで六三里一四町二三間(約二四六・五キロ)で、領内支配の幹線道路である。この街道は慶長八年(一六〇三)有屋峠(山形県境)の山道を閉して院内杉峠を開いて以来、開削・整備が続けられた。同九年七月二九日付小場右兵衛(義成)あて佐竹義宣書状(秋田藩家蔵文書)に
<資料は省略されています>
とある。小場義成は移封当初秋田氏の旧城檜山に駐屯して(秋藩紀年)、慶長九年に三倉鼻(現南秋田郡八郎潟町真坂)以北金光寺(現山本郡山本町)から北に能代街道を経て津軽領に至る大間越街道の道作奉行となったものである。このことから、他地域も同様に慶長八―九年に駐屯の一門、譜代の重臣を道作奉行とし、街道近辺の郷中を動員し、一騎(上士)を監督に配し、道路工事・架橋・一里塚の設置を急いだことがわかる。しかし羽州街道および脇街道が整備されたのは天和年間(一六八一―八四)までの間のことか、寛文二年(一六六二)に駄賃制札控、天和元年に領中大小道程帳(秋田県庁蔵)、同二年一〇月に駄賃元札之草案・駄賃増銭札之草案などが定められている。領中大小道程帳は宿駅・一里塚の所在・札場・橋・舟渡し・徒渉河川などが記されるが、院内境目杉峠より二六町四〇間の沓懸に最初の一里塚がある。そこから羽州街道を北上すると、下院内(本陣)―湯沢町(本陣)―岩崎村―横手町(本陣)―金沢村―六郷村―大曲村―花館村―神宮寺村―北楢岡村―刈和野村(本陣)―淀川村―境村(本陣)―和田村―戸島村―城下久保田―湊町―大久保村―下虻川村―大川村―一日市村(本陣)―鹿渡村(本陣)―森岳村―檜山村―形村―飛根村(本陣)―荷上場村―小繋村―今泉村―前山村―綴子村(本陣)―川口村―大館町(本陣)―釈迦内村―白沢村―長走村などの駅場を経て陣場平村に至る。
羽州街道
うしゆうかいどう
奥州街道の桑折(現福島県伊達郡桑折町)から関(現宮城県刈田郡七ヶ宿町)・上ノ山(現山形県上山市)・山形(同山形市)・湯沢(現秋田県湯沢市)・横手(同横手市)・久保田(同秋田市)を経て津軽に入り、弘前から奥州街道筋の青森に至る街道。宿駅は五八次、六三次など数え方に差がある。現在の国道一三号と同七号の秋田以北を併せた機能をもっていたが、上山以南は板谷峠の難所を避けて米沢(現山形県米沢市)は通過しなかった。奥州街道との連絡には山形から笹谷越が使用され、寛永(一六二四―四四)から明暦(一六五五―五八)頃まで参勤交代にもこの道が利用されていた。秋田藩主佐竹義宣は山中七ヶ宿街道に関心をもち、元和八年(一六二二)に桑折から山形までの距離を調査させ、寛永元年江戸からの帰路にこの街道を利用した(梅津政景日記)。七ヶ宿街道の比重が増すのは金山峠の改修が行われた明暦二年以後のことといわれる。津軽でも江戸への往復に羽州街道を利用するが、七ヶ宿街道の小坂峠にちなんで「小坂通」「小坂道中」などとよんだ。
羽州街道の弘前・秋田両藩境辺についてみると、江戸時代の初期には能代(現秋田県能代市)から日本海沿いに北上し、大間越(現西津軽郡岩崎村)口から津軽に入っていた。慶安二年(一六四九)の津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳(八木橋文庫蔵)は領内の道を「大道筋」「小道」「脇道」「磯辺路」などに分類しているが、「大道筋」として秋田領境目―大間越―岩崎(現岩崎村)―深浦―追良瀬―金井ヶ沢(以上同深浦町)―赤石―鰺ヶ沢(以上同鰺ヶ沢町)―十腰内―高杉―弘前居城(以上現弘前市)―藤崎(現南津軽郡藤崎町)―浪岡―大釈迦(以上同浪岡町)―新城―油川―青森―野内―浅虫(以上現青森市)―小湊―狩場沢(以上現東津軽郡平内町)―南部領境目の街道をあげている。また「弘前従居城秋田領白沢江出ル大道筋」として弘前―堀越(以上現弘前市)―大鰐(現南津軽郡大鰐町)―碇ヶ関(同碇ヶ関村)―秋田領境目の矢立峠を越える街道をあげている。
正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図では大間越の南から油川の南手前まで三二の一里塚がみえ、弘前―秋田白沢口(現秋田県大館市)間に六の一里塚が記されている。
羽州街道
うしゆうかいどう
陸奥福島北方の桑折宿(現福島県伊達郡桑折町)で奥州街道から分れて北西方向に進み、小坂峠から山中七ヵ宿(上戸沢・下戸沢・渡瀬・関・滑津・峠田・湯原の七宿をいい、いずれも現宮城県刈田郡七ヶ宿町)を経て金山峠を越えて出羽国に入り、楢下宿・上山(現上山市)、山形、新庄、金山(現最上郡金山町)を経て雄勝峠を越えて雄勝郡に入り、さらに陸奥三厩(現青森県東津軽郡三厩村)に至る道で、近世出羽国内陸部を縦貫する主要幹線であった。宿継は桑折より三厩まで五八宿、現山形県内には楢下・上山、黒沢・松原・山形(現山形市)、天童、六田・宮崎(現東根市)、楯岡・本飯田・土生田(現村山市)、尾花沢・名木沢(現尾花沢市)、舟形(現最上郡舟形町)、新庄、金山、及位(現最上郡真室川町)の一七宿が設けられた。このうち黒沢・松原、六田・宮崎、本飯田・土生田はそれぞれ合宿で、松原・六田・土生田の三宿は毎月一日より二〇日まで、黒沢・宮崎・本飯田の三宿は二一日より晦日までの継立に当たった。現秋田県域の経路は院内(現雄勝郡雄勝町)・湯沢・横手を経て秋田(久保田)城下に至り、大館から三厩に至った。
街道が整備されたのは、近世初期の慶長―寛永期(一五九六―一六四四)にかけてである。常陸五四万石の佐竹氏が秋田に転封になったのは慶長七年、秋田藩の銀山奉行梅津政景(のちに家老)は転封後たびたび江戸と秋田を往復しているが、初めは山形から笹谷峠越で陸奥に入っていた(梅津政景日記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
うしゅうかいどう【羽州街道】
山形県上山市にある街道遺跡。指定名称は「羽州街道 楢下宿(ならげしゅく) 金山越(かなやまごえ)」。羽州街道は、江戸時代に整備された脇往還(五街道に次ぐ街道)の一つ。奥州街道(仙台道)から桑折(こおり)宿(福島県伊達郡桑折町)で分岐し、金山峠を越えて、出羽国(羽州、現在の山形県と秋田県)を縦断し油川宿(青森県青森市)で再び奥州街道(松前道)と合流する。羽州街道は、現在の国道113号・国道13号・国道7号などに相当する。楢下宿は市内の楢下にあり、青森、秋田、山形の諸大名13藩の参勤交代の宿場として、本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋、茶店などを備えて賑わい、羽州街道の交通の要衝として栄えた。現在は、脇本陣「庄内屋」を復元するなど、宿場町の面影を伝える歴史的な建物が保存され、点在している。1997年(平成9)に、「羽州街道楢下宿・金山越」として、市内金山の金山峠を越える道「金山越」とともに国の史跡に指定された。楢下宿へは、JR山形新幹線かみのやま温泉駅から山交バス「楢下新町」下車、徒歩すぐ。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
羽州街道 (うしゅうかいどう)
仙台・松前道の桑折(こおり)から分かれて,羽州地方を経て青森で再び同街道に合する近世の脇往還。秋田道ともいう。おもな道筋は上山,山形,新庄,横手,秋田(久保田),弘前等である。宿数は58,または63ともいう。はじめは山形から笹谷街道を経て仙台・松前道に達したが,1622年(元和8)秋田藩主が上山経由の山中七ヶ宿街道を調査し,55年(明暦1)以降本筋となった。秋田~弘前間も62年(寛文2)を境に,以前は大間越・鰺ヶ沢の日本海沿い(後の大間越街道)であったが,以後は大館・碇ヶ関の山道に代わった。出羽・津軽地方の諸藩が多く利用した。
執筆者:波田野 富信
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羽州街道
うしゅうかいどう
奥州道中の桑折(こおり)(福島県桑折町)から青森大浜に達する脇往還(わきおうかん)。秋田道ともいう。小坂峠を越えて山中七ヶ宿を抜け、金山峠から出羽(でわ)に入り上ノ山(かみのやま)、山形、天童(てんどう)、及位(のぞき)、横手、久保田(秋田)、大館(おおだて)、碇ヶ関(いかりがせき)、弘前(ひろさき)を経て大浜で奥州道中に合する。小坂宿より大浜まで58宿、峠と川越の連続で難所が多い。秋田藩佐竹氏が金山峠越の七ヶ宿通りを整備して以来参勤交代の重要交通路となり、秋田藩佐竹氏、弘前藩津軽氏をはじめ、黒石、亀田、本荘(ほんじょう)、新庄、鶴岡(つるおか)(庄内)、松山、長瀞(ながとろ)、天童、山形、上山の12藩が通行した。松前藩主が利用したこともあり、出羽三山の道者なども利用した。街道に沿って最上(もがみ)川が流れていたため、商人荷物や城米輸送は舟運にとられ、物資運送をめぐり舟運との間にしばしば争奪戦がみられた。
[山本光正]
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羽州街道【うしゅうかいどう】
奥州道中の桑折(こおり)宿(現福島県桑折町)から分かれて北西方に向かい,小坂・金山(かねやま)の峠を越えて出羽国に入り,上山・山形・新庄から横手・久保田(秋田)・大館などを経て陸奥国の弘前(ひろさき),三厩(みんまや)(青森県外ヶ浜町)に至る江戸時代の脇街道。秋田道ともいう。整備されたのは慶長〜寛永期(1596年−1644年)で,58宿を数えた。当街道は南行すれば奥州道中により江戸に達し,出羽・陸奥の大名の参勤交代路として利用されたほか,商品流通路でもあった。
→関連項目矢立峠
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羽州街道
うしゅうかいどう
秋田道とも称された。羽州街道は奥州街道と福島の北桑折 (きたこおり) で分れ,小坂,金山2峠を越えて上山 (かみのやま) に出,そこから山形,横手,秋田,大館,弘前を経て青森にいたる宿駅 58次の街道。佐竹氏,津軽氏ほか諸大名の江戸参勤の道として,また産業開発,領国支配の道路として整備された。裏通りに福島,上山間を通る米沢街道があり,米沢藩主の参勤交代における通路として栄えた。現在では福島-秋田間が国道 13号線,秋田-青森間は国道7号線となっている。
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世界大百科事典(旧版)内の羽州街道の言及
【街道】より
…北海道でも幕末には南部の沿岸街道では宿継制が敷かれた。[羽州街道](江戸街道の小坂通り本道ともいう),奥州街道の桑折から分かれて小坂峠を越え,山中七ヶ宿を過ぎて金山峠を越えて上ノ山に下り,山形,天童,新庄,久保田(秋田),弘前の諸城下を経て,青森で奥州街道に合する。奥州・羽州両街道をつなぐ東西に走る街道も多いが,上ノ山から南下して米沢を経て板谷峠を越えて会津に出る米沢街道もある。…
【出羽国】より
…山形や秋田など城下町の有力商人に,堺や近江出身のものが多いのもそのためである。 陸上の主要な街道は[羽州街道]で,諸大名の参勤交代にはすべてこれが使われた。この街道は奥州街道(仙台―松前道)から桑折(こおり)で分かれ,陸奥の七ヶ宿街道から金山峠を越えて出羽に入り,上山,山形,新庄,横手,秋田,大館を結んでいる。…
※「羽州街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」