日野勝光(読み)ひのかつみつ

改訂新版 世界大百科事典 「日野勝光」の意味・わかりやすい解説

日野勝光 (ひのかつみつ)
生没年:1429-76(永享1-文明8)

室町中期の公卿。父政光(重政)の早世により祖父義資の養子となる。母従三位北小路苗子。8代将軍足利義政の室日野富子の兄。応仁文明の乱前後の幕政に関与した。1455年(康正1)権大納言に昇進,65年(寛正6)従一位に叙され,61年三条実雅の所領であった能登国若山荘などを与えられる。応仁の乱には東軍陣営にあり,義政が細川勝元に錦の御旗を与えるのを阻止しようとした。73年(文明5)義尚が将軍に就任すると,新将軍の代官として幕政を執行,幕府奉行人は勝光の邸に伺候し裁判,行政事務を行ったという。74年西軍畠山義就から礼金を受け両軍和睦を謀り,万事にわいろが必要とうわさされた。76年死の直前に義政の推挙により左大臣に昇進。一説に医師竹田昭慶に毒殺されたとも,8万貫を残したともいう。80年勝光の娘は義尚の室となる。京都知恩院に肖像画が残されている。号は唯称院。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野勝光」の意味・わかりやすい解説

日野勝光
ひのかつみつ
(1429―1476)

室町中期の公卿(くぎょう)。日野重政(しげまさ)(政光(まさみつ)改め)の子。1434年(永享6)祖父義資(よしすけ)の没後その家督を継ぐ。55年(康正1)権大納言(ごんだいなごん)となり、この年妹富子(とみこ)が将軍足利義政(あしかがよしまさ)の室となったのを機に権勢を強め、65年(寛正6)に従(じゅ)一位に上り、翌66年(文正1)には院の執権となる。将軍義政を抑えて幕政に介入し、富子の子義尚(よしひさ)を将軍家の家督にたてようと計り、伊勢貞親(いせさだちか)とともに、すでに後嗣(こうし)と定められていた義視(よしみ)を排斥し、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を招くきっかけをつくった。67年(応仁1)には、同家で前例のない内大臣となり「押大臣」とよばれて専権を振るい、ことに73年(文明5)義尚が将軍になると、新将軍代として幕政を担当した。76年には左大臣となり官位を極めたが、同年6月15日、48歳で没した。奈良興福寺大乗院の尋尊(じんそん)は、これを「希有(けう)の神罰なり」と記している。唯称院と号す。

[酒井紀美]

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朝日日本歴史人物事典 「日野勝光」の解説

日野勝光

没年:文明8.6.15(1476.7.6)
生年:永享1(1429)
室町時代の公卿。唯称院と号す。父は裏松(日野)重政(初名は政光),母は北小路苗子。将軍足利義政の室日野富子は妹である。永享6(1434)年に祖父裏松義資が盗賊に殺され,父重政が出家したため,義資の養子として裏松家を継ぎ,嘉吉1(1441)年に元服。日野(広橋)兼郷の没後に後継者のいなくなった日野家を文安5(1448)年に継いだ。宝徳2(1450)年に蔵人頭,右中弁,参議,同3年に従三位,左大弁,権中納言となり,康正1(1455)年権大納言,長禄3(1459)年正二位,寛正6(1465)年には6人を越えて従一位に昇進し,文正1(1466)年から翌年後花園上皇の院執権を兼ねた。文明8(1476)年に左大臣となってまもなく病没し,千本歓喜寺に葬られた。富子の兄としておおいに権勢をふるい,将軍義尚に代わって政務を行ったという。京都智恩寺に肖像画がある。

(伊東正子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日野勝光」の解説

日野勝光 ひの-かつみつ

1429-1476 室町時代の公卿(くぎょう)。
永享元年生まれ。父日野政光の出家後に祖父日野義資(よしすけ)が横死し,若年で祖父の家督をつぐ。妹の日野富子が将軍足利義政の妻になったため権勢をふるい,富子の子義尚(よしひさ)を後嗣にたてようと画策して応仁の乱のきっかけをつくる。文明8年左大臣。同年6月15日死去。48歳。毒殺説が流布した。従一位。法号は唯称院。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日野勝光」の意味・わかりやすい解説

日野勝光
ひのかつみつ

[生]永享1(1429)
[没]文明8(1476).6.15. 京都
室町時代中期の公卿。贈内大臣重政の子。宝徳2 (1450) 年権中納言。将軍家に取入って,妹富子を足利義政の室に入れ権勢をふるった。応仁1 (67) 年内大臣,文明8 (76) 年には左大臣となり,専権をふるい押大臣と称された。

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世界大百科事典(旧版)内の日野勝光の言及

【日野家】より

…藤原氏北家の流れ。右大臣内麻呂の息男真夏から出て,その孫家宗が山城国宇治郡日野の地に法界寺を創建し,家宗の5世の孫藤原資業(すけなり)が法界寺の薬師堂を建立し,それより日野氏を称した。公家としての家格は弁官を経て中・大納言に至る名家で,代々儒道および歌道をもって朝廷に仕えた。南北朝時代には俊光,資名,資朝が活躍し,室町時代には時光の女業子と孫女康子(北山院)が将軍足利義満の室となってから,9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったために勢力を張り,時光の子資康および資康の子重光は従一位権大納言に進んだ。…

※「日野勝光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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