改訂新版 世界大百科事典 「日鮮同祖論」の意味・わかりやすい解説
日鮮同祖論 (にっせんどうそろん)
日朝両民族はその祖先を同じくし,兄弟あるいは本家と分家に擬せられる間柄であり,本来一体となるべきであるという主張。日本の朝鮮侵略,朝鮮支配が歴史的に合法なものであると説明するために喧伝(けんでん)された。日鮮同祖論の枠組みが形成されたのは古く,少なくとも江戸時代中期の国学にまでさかのぼることができる。平田篤胤らの国学における《古事記》《日本書紀》の研究は,日朝両民族は国家形成の段階から密接な関係にあったこと,日朝間には日本を支配的な地位につける上下関係が成立することを説き,日鮮同祖論の骨格を作りあげた。幕末期には尊王攘夷論と結びついて征韓論が登場するが,征韓論は支配層が政治的危機を回避するためにとった方策であり,日鮮同祖論の一面を具体化した理論でもあった。
明治期に入り,日本の朝鮮侵略が進むにつれて日鮮同祖論はますます重要性を増し,内容の精密化がはかられることになる。その第1の時期は日清・日露戦争によって朝鮮支配の完成がめざされる時期で,国史(日本史)の編集に併行して久米邦武らが唱えた同祖論である。このときには特に日朝の一体性に力点が置かれ,日韓併合を実現するための理論となった。第2の時期は日韓併合(1910)後で,同祖論は朝鮮人の日本人化を促す論理として焼き直された。当時の同祖論者喜田貞吉は,朝鮮人は〈早く一般国民に同化して,同じく天皇陛下の忠良なる臣民とならねばならぬ。是れ啻(ただ)に彼等自身の幸福なるのみならず,彼等の遠祖の遺風を顕彰する所以(ゆえん)である〉と述べている。第3期は三・一独立運動(1919)以後であるが,朝鮮人の強靱な民族的自覚を抑えるためにいっそう精緻な同祖論が必要とされた。その要請に応えたのが金沢庄三郎の《日鮮同祖論》(1929)である。彼はすでに《日韓両国語同系論》(1910)や《日鮮古代地名の研究》を著していたが,音韻学の手法を駆使して日朝両民族の同祖性を論じるとともに,さらに大きな地域的広がりをもつ〈ソ民族〉の存在を想定してみせた。これがまた日本の侵略拡大に符合する理論と結びついたといえよう。
執筆者:馬渕 貞利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報