旧竹田荘(読み)きゆうちくでんそう

日本歴史地名大系 「旧竹田荘」の解説

旧竹田荘
きゆうちくでんそう

[現在地名]竹田市竹田・殿町

南画家として全国的に知られた田能村竹田の旧宅。入口の石段を上り西向きの冠木門を入ると、二階建瓦葺の旧宅がある。竹田は二階の一〇畳の間を対翠たいすい楼と名付けて書斎としていたという。東側に庭園があり、その北側に補拙廬ほせつろがある。その西側に筆塚があり、東側に織部灯籠が置かれる。本宅西側に画聖殿がある。竹田は安永六年(一七七七)竹田村に岡藩主の侍医硯庵の次子として生れる。一一歳で藩校由学ゆいがつ館に入り経学文章を学ぶ。また絵を好んだ。肥後熊本に遊学し、帰国して由学館司業となる。師の唐橋君山とともに地誌「豊後国志」の編纂に当たり、君山の死後これをまとめた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「旧竹田荘」の解説

きゅうちくでんそう【旧竹田荘】


大分県竹田(たけた)市竹田にある邸宅跡。指定名称は「旧竹田荘 附田能村竹田墓(つけたりたのむらちくでんのはか)」。江戸後期の文人画家・田能村竹田の生家で、阿蘇外輪山くじゅう連山、祖母山の裾野に開けた竹田盆地の市街南部の小高い丘陵にある。旧宅や庭園など往時の生活空間がよく保存されていることから、墓とあわせ、1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。田能村竹田は1777年(安永6)、岡藩藩医、田能村碵庵(せきあん)の次男として生まれた。兄の死後、跡を継いで藩医を務めるが、1798年(寛政10)には医業を廃し、藩校由学館(ゆうがくかん)で学問を専攻、『豊後国志』の編纂、『豊後風土記』の校訂で功績を積む。職を退いてからは詩画などの研鑚に没頭。茶道、香道にも造詣が深く、風流人として著名であった。竹田荘は敷地の西北隅に門を構え、母屋は木造2階建て、玄関を西に開き北から東に庭がめぐり、東面の庭中にはアトリエ兼弟子の住まいに使った補拙盧(ほせつろ)、隠居部屋に用いた草際吟舎(そうさいぎんしゃ)、筆塚などがあった。墓は竹田荘の西南約490mのところにあり、墓前には帆足杏雨(ほあしきょうう)らが献じた石燈籠2基がある。JR豊肥本線豊後竹田駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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