竹田城下(読み)たけたじようか

日本歴史地名大系 「竹田城下」の解説

竹田城下
たけたじようか

[現在地名]竹田市竹田町・竹田

かつての城下町はほぼ現在の竹田町に含まれるが、近世後期に拡大した町域や城跡は竹田の内で、そのほか村方の土地も存在した。大野川(白滝川)の支流稲葉いなば川が貫流する盆地状地形の中央部に位置する。岡藩領のうち大野郡を除き直入なおいり郡域に限ってみると、西から流れ出る諸河川・諸谷が竹田に集まり、あたかも扇の要の位置に相当する。これらに沿って道筋も扇状に延びている。文禄三年(一五九四)中川氏はおか城に入ると同時に、居城築造、城下町の創設を開始した。岡城下ともいう。城は大野川と稲葉川が合流する舌状台地上、志賀氏の旧居城を修築した。志賀氏の時代は城の北に大手門があり、十川そうがわ村・挟田はさだ村に城下町があったといわれるが、中川氏はそれと反対に南西に大手門を構えた。一般的には城を取巻くように城下町が形成されるが、当地の場合は地形の関係から、城から南西に十数町離れた稲葉川南岸の盆地状沖積地の竹田村に営まれた。当時この一帯は小河川の流域に広がる湿地的な水田地帯であったらしいが、排水溝の整備などにより町屋の建設が進められた。まず玉来たまらい町から五三戸を、十川村・挟田村からも民家を移した。町屋に住む住民を監督する庄屋が任ぜられ、その居宅は大勝だいしよう院の山際に置かれた。玉来町からの移住者は真正しんしよう寺の檀徒であったため、真正寺の僧慶祐を竹田に出張させ小庵を営ませた。これがのちに光西こうさい寺となる。初期の町筋もほぼ後世のように碁盤目状に交差していたらしい。東西の通りは南からうわ町・町・府内ふない町・御小人おこびと町とあり、南北の通りは西からほん町・しん町・よこ町があった。城下町の西を南から北に慶順けいじゆん川が流れ、北西の構口付近でいったん吉野よしの池に溜り、さらに北流する。吉野池の北西地域は百姓居住区であったが、寛永七年(一六三〇)町屋に組込まれてふる町となる。同一三年から同一六年まで古町一角うら町に幕府の命により鋳銭所が設けられ、寛永通宝が造られた。寛文四年(一六六四)古町付近は侍屋敷とされる。延宝三年(一六七五)時鐘が鳴らされ始める(中川史料集)

城下町の支配は当初竹田村庄屋が行っていたが、承応三年(一六五四)町奉行が設けられ、太田源右衛門と沢儀右衛門が任命された。元禄九年(一六九六)町の出入口を警備する口屋番所が七ヵ所に設けられ、番人は当初二八人、宝永五年(一七〇八)一五人となる(温故集)。町の東側に武家屋敷町が設けられ、殿との町・上殿町と名付けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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