明儒学案(読み)みんじゅがくあん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「明儒学案」の意味・わかりやすい解説

明儒学案
みんじゅがくあん

中国、清(しん)代初期の思想家黄宗羲(こうそうぎ)の主著。1676年に完成した明(みん)代の儒学史。62巻。明代儒学は陳献章(ちんけんしょう)が端を開き、王守仁(しゅじん)(陽明)に至って大いに明らかになったとし、陽明学正統派から東林学派を経て自らの師劉(りゅう)宗周に至る学術の流れに中心を置きながら、それぞれの思想傾向ごとにグループ別にして学案をたて、事績と学説内容を記載している。自らの史観に基づいて、陽明学派の急進的な一派儒教から逸脱する方向に向かったと非難し、独創的思想家とされる李贄(りし)や何心隠(かしんいん)などは独立した項目をたてないという限界はありながら、当時の同種の作品と比較すれば、思想界の多様な活動を冷静に網羅的に記述し、しかも人物と学説の特徴を簡潔かつ的確に要約して示しており、この点で彼の遺志を継いで後人が完成した『宋元(そうげん)学案』も遠く及ばない。いまは散逸した資料も多く含まれ、明代思想史の基本文献として利用され、学派の区分もこの書を基礎にすることが多い。

[佐野公治]

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改訂新版 世界大百科事典 「明儒学案」の意味・わかりやすい解説

明儒学案 (みんじゅがくあん)
Míng rú xué àn

中国,明末・清初の思想家,黄宗羲の著した明代哲学史。1676年(康煕15)ごろ稿成る。62巻。王守仁(陽明)およびその門下を中心にすえて構成。その前史として呉与弼(康斎)-陳献章(白沙)の系統から説き起こし,父の黄尊素を含む〈東林学案〉,恩師劉宗周の〈蕺山(しゆうざん)学案〉でしめくくる。王門の中では江右王門を正統とし,いわゆる王学左派の泰州学派には王門の呼称を与えず,李贄(りし)を載せない点に黄宗羲の史観があらわれている。収録された学者は200名以上にのぼり,伝記,著作の抜粋をのせ,各学案の初めに概論としての序が付せられ示唆に富む。賈本,鄭本,莫本の3種の板本があり異同がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明儒学案」の意味・わかりやすい解説

明儒学案
みんじゅがくあん
Ming-ru xue-an

中国,明代の学者を列挙して,その学問の系統を明らかにした書。清の黄宗羲撰。 62巻。康煕6 (1667) 年以後完成。乾隆 14 (1749) 年刊。 196人の学者について,各人の伝記,文集,記録,学説の要点抄録,その批判を著わしたもので,彼の未完の著『宋元学案』とともに中国最初の学術思想史として高く評価されている。

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世界大百科事典(旧版)内の明儒学案の言及

【黄宗羲】より

…新しい清王朝には出仕しなかったが,康熙帝が明代史を編纂しようとしたときには,弟子の万斯同と子の黄百家を送り史館に入れて協力させた。彼の著述は,きわめて多いが,最も有名なのは,明代学術史である《明儒学案》62巻,宋・元学術史である《宋元学案》100巻(全祖望との共著)で,両書は宋代以後の学術思想を論ずる場合に必須のものである。また,《明夷待訪録(めいいたいほうろく)》1巻は,鋭い君主制批判と民本主義的内容のために,清末の改革運動のなかで再発見され,これによって黄宗羲は〈中国のルソー〉と称された。…

※「明儒学案」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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