改訂新版 世界大百科事典 「王学左派」の意味・わかりやすい解説
王学左派 (おうがくさは)
Wáng xué zuǒ pài
中国の陽明学,すなわち王学の学派。王守仁(陽明)の良知心学は,いっさいの教学の枠をこえるから,師説の受容とて各自の良知の判断にゆだねられる。だから,もともと一定不可変の内容を共有するものとしての〈学派〉とはなじまない。いきおい王門にあっては,師説は師説として,各自がさらにそれをいかに主体的に受容し展開するかという段になると,百花斉放の観を呈する。この点は,朱熹(朱子)以後,その教学が急速に固定化してみるべき新展開をしなかった朱子学とは著しく異なる。しかし,王門の百花斉放の現象に,おのずからいくつかの潮流が判然とあることも否めない。強いていえば分派対立である。その際,(1)実存する人間の現姿,(2)個人の自立と社会活動の関係,をいかに把握するか,換言すれば,王守仁の(1)良知の自己実現による個人の自立,(2)万物一体の仁,真誠惻怛(そくだつ)の愛に促されて教化安養し大同社会を建設すること,この2点が論争主題であった。
さて王守仁直伝の高弟には,王艮(おうこん),王畿,欧陽崇一(南野),銭徳洪(緒山),鄒守益(東廓),羅洪先(念奄),聶豹(じようひよう)(双江)がいる。このうち王艮・王畿の二王は良知心学の本質をより徹底化した。この二王の学統に連なるものを王学左派(あるいは良知現成派)という。王畿は王守仁が急死したために存分に展開しきれなかった無の哲学を開花させて,人間が本来的にもつ完全性を強調した。それだけに,王畿は人間の背理性,人のもつ弱さを見おとしており,現存在する人間のだれもが本来性を現実に実現しているわけではないと,銭徳洪,羅洪先,聶豹らから激しく論難された。他方,王艮もまた人間観としては,王畿同様,良知の当下現成説を主張したが,しかし,彼の特色はむしろその社会観にある。個人の自立を自己目的化するのではなく,それを同時に社会教化,それも人倫喪失地帯の下層社会に良知心学を普及させることを急務とした。その結果,非士大夫層に特異な思想家が輩出した。それゆえ王艮は己の未熟を忘れて他者への宣伝普及に埋没する者と非難された。
ともあれ,王畿が良知心学を向内的に深化発展させたのに対して,王艮は向外的に拡大普及させたといえる。王学左派のうち,王艮の一派を限って泰州学派というが,何心隠,羅如芳(近渓),楊復所,李贄(りし)(卓吾),周海門,陶望齢などがその代表的思想家である。明末の特異な思想家は順縁・逆縁のいずれにせよ,例外なくこの二王の影響を色濃くうけている。また二王,特に王畿が仏老(仏教と老子の思想)を導入して思想形成の滋養としたのに刺激されて,この時期に仏教が蘇生した。良知心学とりわけ左派は明末仏教の蘇生にあずかった産婆役であった。それだけに守旧派の反感は強かったが,特に朱子学者の組織的反論が社会的に顕在化するのは17世紀に入ってからである。明・清鼎革の後には,朱子学者の王学左派批判の大合唱が展開され,その論陣の雄であった朱子学者陸隴其(りくろうき)などは,明王朝は実は王学左派のために滅びたとまで酷評した。王学左派の本領が,歴史の展開の中に位置づけて理解されたのはごく最近のことである。
→陽明学
執筆者:吉田 公平
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