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明尊 みょうそん

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

明尊 みょうそん

971-1063 平安時代中期の僧。
天禄(てんろく)2年生まれ。小野道風の孫。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺の智弁,慶祚(けいそ)らにまなぶ。長吏,大僧正にのぼり,円満院に住した。天台座主(ざす)就任をめぐって比叡(ひえい)山側と紛糾,永承3年座主となるが3日で辞任。晩年は志賀寺にはいり,志賀大僧正とよばれた。康平6年6月26日死去。93歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

明尊

没年:康平6.6.26(1063.7.24)
生年:天禄2(971)
平安中期の天台宗寺門派の僧。一説に6月16日死去。歌人。志賀僧正と呼ばれる。京都の人。小野道風の孫。余慶,観修,慶祚らに師事。近江(滋賀県)園城寺長吏を2度勤め,同寺に円満院を創建。再任の長暦2(1038)年大僧正となり,天台座主の候補に昇る。翌年,上東門院に授戒し,山門派(慈覚門徒)に対抗して園城寺に戒壇を創建することを主張。永承3(1048)年に天台座主となったが,数日で辞職。藤原頼通の帰依を受け,興福寺再建供養会の導師を勤め,宇治平等院の検校となり,90歳の賀を受けた。一条天皇から八宗総博士に任ぜられたという。弟子の覚円は頼通の子である。

(岡野浩二)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

明尊
みょうそん
(971―1063)

平安後期の天台宗の僧。「めいそん」ともよぶ。京都生まれ。小野氏出身、小野道風(おののとうふう)の孫。園城寺(おんじょうじ)の智弁(ちべん)に弟子入りし、智静(ちじょう)、慶祚(けいそ)、賀延(かえん)、智観(ちかん)に天台・密教を受学した。一条(いちじょう)天皇は八宗総博士と崇(あが)め、1028年(長元1)には権大僧都(ごんのだいそうず)にまで進み、園城寺長吏となった。1年にして辞任したが大僧正(そうじょう)に進み、ふたたび長吏となった。ときに天台座主(ざす)に任ぜられようとすると、比叡山(ひえいざん)の僧徒がこれを拒み、いわゆる比叡山の山門と、園城寺の寺門との確執は激しいものとなった。園城寺独自の戒壇建立を請い、また山門の妨害でならなかった。1048年(永承3)天台座主を命じられたが在職3日で辞任。円満院(えんまんいん)を充実し、晩年志賀寺に住し、円満院僧正、志賀(しが)僧正といわれる。[木内曉央]

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世界大百科事典内の明尊の言及

【大浦荘】より

…はじめ清和院領,881年(元慶5)勅により,同荘墾田28町5反余が俘囚浪人とともに延暦寺文殊院に寄進された。その後,後一条天皇領,あるいは公卿領を経て,園城寺の僧明尊の私領となった。明尊は住房を天皇御願の堂となし,これを円満院(寺門派三門跡の一つ)と号し,1041年(長久2)大浦荘を寄付。…

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