デジタル大辞泉
「余慶」の意味・読み・例文・類語
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よ‐けい【余慶】
- 〘 名詞 〙
- ① 功徳の報いによって起こる吉事。祖先の行なった善事の報いによって、子孫にやってくる吉事。祖先の善根によって、子孫が報われること。余殃(よおう)に対していう。
- [初出の実例]「余慶因レ君終不レ墜、三千人荷二二公恩一」(出典:田氏家集(892頃)中・敬和吏部菅侍郎澆章宴後書懐見寄詩)
- 「積善の家に余慶あり、積悪の門に余殃とどまるとこそ承はれ」(出典:平家物語(13C前)二)
- [その他の文献]〔易経‐屯卦〕
- ② おかげ。余光。余薫。
- [初出の実例]「されば此猿楽をして遊ぶ事も偏に武恩の余慶(ヨケイ)也」(出典:太平記(14C後)二三)
- ③ ⇒よけい(余計)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
余慶
よけい
(919―991)
平安中期の天台宗の僧。「よきょう」ともよぶ。筑前(ちくぜん)国(福岡県)早良(さがら)の生まれ。宇佐氏。園城寺(おんじょうじ)の明仙(みょうせん)に師事し、行誉(ぎょうよ)から灌頂(かんじょう)を受ける。979年(天元2)権少僧都(ごんのしょうそうず)となり園城寺長吏となる。翌980年岩倉観音(かんのん)院(大雲寺)に阿闍梨(あじゃり)五口を置き密教道場として整備。981年(天元4)11月法性寺座主(ざす)に任ぜられると、延暦寺(えんりゃくじ)の僧徒が嗷訴(ごうそ)し、山門・寺門の確執が深まる。よって座主を辞し岩倉に退き、その経営にあたった。989年(永祚1)9月、天台座主に任ぜられると、延暦寺僧都によりその宣命(せんみょう)を奪われ、12月に辞す。験力にまつわる伝承もある。
[木内曉央 2017年10月19日]
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余慶 よけい
919-991 平安時代中期の僧。
延喜(えんぎ)19年生まれ。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺(寺門派)の明仙(みょうせん)に師事,のち同寺長吏となる。天元4年法性寺(ほっしょうじ)座主(ざす),永祚(えいそ)元年天台座主となったが,山門派(円仁系)と寺門派(円珍系)の争いをまねき,山城(京都府)岩倉の観音院(大雲寺)にうつった。観音院僧正とよばれた。正暦(しょうりゃく)2年閏(うるう)2月9日死去。73歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。俗姓は宇佐。諡号(しごう)は智弁。
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普及版 字通
「余慶」の読み・字形・画数・意味
【余慶】よけい
子孫にまで吉事が及ぶ。〔易、坤、文言伝〕積善の家には必ず餘慶り、不善を積む家には必ず餘殃(よあう)り。字通「余」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
余慶
よけい
[生]延喜19(919)頃.筑前
[没]正暦2(991).2.
平安時代の天台宗の僧。勅諡は智弁。智証大師流の興隆者として有名。園城寺の明仙のもとで天台学を習い,行誉に密灌を受けた。天元2 (979) 年園城寺長吏となり,永祚1 (989) 年天台座主に補せられたが,慈覚大師流の山門徒が蜂起して宣命を奪ったので,朝廷は重ねて前唐院 (慈覚の廟) で宣命を下した (永祚宣命) 。両派の確執がなお治まらないのでほどなく座主を辞し,権僧正に任じられた。
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余慶
没年:正暦2.閏2.18(991.4.5)
生年:延喜19(919)
平安中期の天台僧。明仙 の弟子。円珍流の興隆に努め,多くの優秀な弟子を育てた。天元2(979)年に園城寺長吏。同4年には法性寺座主となるが,円仁流の反対にあって停止,山門・寺門両派の闘争の原因となった。永祚1(989)年に天台座主となったときも反対にあって3カ月で辞している。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の余慶の言及
【蓋鹵王】より
…諱(いみな)は慶司。中国史書には余慶とあり,《日本書紀》では加須利君とも記す。457年,みずから宋に封冊を求めて鎮東大将軍に任ぜられ,翌458年には重臣11人の任官も要請するなど,国際社会における地位の強化と国内支配の権威づけにつとめた。…
※「余慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」