明石順三
あかしじゅんぞう
(1889―1965)
宗教家。滋賀県生まれ。中学中退後の1908年(明治41)に渡米し、独学して邦字新聞記者となる。滞米中、キリスト再来の切迫を主張して徴兵や選挙を忌避するワッチ・タワーWatch Tower(エホバの証人)の信仰を得て、1926年(大正15)帰国し、その日本支部として灯台社を創立する。1933年(昭和8)灯台社の従来の出版物の大部分が発禁処分を受け、1939年長男真人(まひと)(1917―?)らの兵役拒否事件を契機に関係者は一斉検挙にあい、明石は治安維持法違反で懲役10年の刑を受けた。非転向のまま第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20)10月に出獄。戦後はワッチ・タワー本部からも離れて栃木県鹿沼(かぬま)市に隠棲(いんせい)し、昭和40年1月14日死亡した。
[赤澤史朗 2018年6月19日]
『稲垣真美著『兵役を拒否した日本人』(岩波新書)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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明石 順三
アカシ ジュンゾウ
明治〜昭和期の宗教家,キリスト者 灯台社(ワッチタワー日本支部)創立者。
- 生年
- 明治22(1889)年7月1日
- 没年
- 昭和40(1965)年11月14日
- 出生地
- 滋賀県坂田郡息長村
- 学歴〔年〕
- 彦根中中退
- 経歴
- 漢方医の家に生まれ、明治41年渡米、大正13年ワッチタワーの講演伝道者となる。帰国後、灯台社(ワッチタワーの日本語名)を創立、全国に布教活動を展開し、日本の国体の否定、戦争否定を行った。昭和14年信者26人と共に検挙され、宮城刑務所に服役したが、非転向を貫いて敗戦を迎えた。戦後はワッチタワー米国本部の妥協的方針を批判して除名され、以後、独立したキリスト者として執筆活動を続けた。「四百年の謎」という長編論文において日本再軍備を批判するなど、終生、平和主義者としての姿勢をくずさなかったことで知られる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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明石順三 あかし-じゅんぞう
1889-1965 明治-昭和時代の宗教家。
明治22年7月1日生まれ。41年渡米し,ワッチタワー(エホバの証人)に入会。帰国後日本支部として灯台社を創立,全国を巡回,伝道した。昭和14年治安維持法違反で入獄,戦後釈放された。昭和40年11月14日死去。76歳。滋賀県出身。彦根中学中退。訳書に「神の立琴」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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明石 順三 (あかし じゅんぞう)
生年月日:1889年7月1日
明治時代-昭和時代の宗教家
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の明石順三の言及
【太平洋戦争】より
… これに対し,知識人を中心とする個人的抵抗にはさまざまな類型があった。消極的抵抗としては,社会主義者の荒畑寒村らのような完全沈黙,作家の谷崎潤一郎や永井荷風,東大教授で政治学者の[南原繁]らのような非便乗の良心的活動があり,積極的抵抗には,弁護士[正木ひろし](個人雑誌《近きより》発行),元東大教授で経済学者の[矢内原忠雄](個人雑誌《嘉信》発行)らのような合法的抵抗,奔敵・逃亡などによる軍隊拒否,日本共産党幹部の[徳田球一],[志賀義雄]らやキリスト教徒で[灯台社]日本支部の明石順三らのような獄中抵抗,政治学者[大山郁夫],俳優岡田嘉子,日本共産党[野坂参三]らのような国外での反戦活動があげられる。彼らの抵抗は,現実を動かす実効という点では弱く微力であったが,これらの人々の多くが,敗戦後の民主化された日本社会のなかで大きな足跡を残したことは,特筆されるべき事実であった。…
【灯台社】より
…ニューヨークのものみの塔聖書小冊子協会Watch Tower Bible and Tract Societyの日本支部で,明石順三(1889‐1965)を支部長として1926年に結成されたキリスト教団体。彼らは聖書を無謬の記録とし,唯一の神を信じて偶像崇拝を禁じ,キリストの間近い再臨により,悪魔の支配する地上の制度・機構は滅ぼされるとし,戦争を聖書のいう殺人罪として認めず,兵役拒否を唱えた。…
※「明石順三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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