普光寺村(読み)ふこうじむら

日本歴史地名大系 「普光寺村」の解説

普光寺村
ふこうじむら

[現在地名]三水村大字普光寺

現三水村の南西部。東北は芋川いもがわ村、東は倉井くらい村、南及び西南鳥居とりい川中央をもって、南から牟礼むれ村・小玉こだま(以上現牟礼村)落影おちかげ(現信濃町)西北船竹ふなたけ(現信濃町)に接する。

村の南、鳥居川にのぞむ河谷はやや広い平地となり、これから段丘崖を上ると段丘上に平地が展開する。その西北は山地で東北へ開けている。この段丘平地を西方小玉村境から東方倉井村境へ北国東街道が通じ、北方の船竹村境から川東道と越後谷街道(船竹村―古海村―越後国樋海村)が南下して、東街道と交差する。

普光寺村
ふこうじむら

[現在地名]彦根市普光寺町

本庄ほんじよう村の北、甲崎こうざき村・上西川かみにしがわ村の西に位置。来迎らいごう川が流れ、河口一帯は入組んだ琵琶湖内湖となっている。地名はかつて天台寺院普光寺があったことによるという(木間攫)。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)に「水所普光寺」とみえ、同所の高七八三石余と小物成の葭米二九石・えり米四石が代官浅野長吉の管理下に置かれている。慶長高辻帳に村名がみえ高八六一石余、うち三三石は小物成。

普光寺村
ふこうじむら

[現在地名]加西市河内町こうちちよう

河内村の北、普光寺川最上流域にあり、三方を山で囲まれる。天台宗蓬莱山普光寺があり、その門前に成立した村。同寺は白雉二年(六五一)法道開基と伝え、播磨天台六ヵ寺の一つ。往古は寺領五〇〇石を領したとされ、室町時代初期までは河内村一円がその寺領であったとも考えられるが、末期には在地土豪在田氏が勢力を伸ばした。永禄九年(一五六六)八月一二日在田氏は普光寺領の四至榜示を定め、守護不入の地として認めている(「在田元長父子連署掟状写」普光寺文書)。慶長国絵図に普光寺とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報