智積御厨(読み)ちしやくのみくりや

日本歴史地名大系 「智積御厨」の解説

智積御厨
ちしやくのみくりや

現四日市市智積を中心として存在した御厨。四至は時期により変動したが、荘域に含まれる地名は下記のとおりである。元応二年(一三二〇)七月一日藤原公行譲状(「綸旨口宣院宣等写」書陵部蔵)ではうりうもり(現三重郡菰野町神森)、衣比原二郷(現上・下海老町)小林こばやし庭田にわた。長禄二年(一四五八)一二月一三日の伊勢国智積御厨年貢帳(醍醐寺文書)の郷名は中村なかむら郷・さくら郷・一色いつしき郷・森郷・平尾ひらお郷・上衣比原郷。年不詳の伊勢国智積・川嶋山田境指図(同文書)では薦野こもの宿野しゆくの(ともに現菰野町)水沢すいざわ(現水沢茶屋町・同美里町)川嶋山田かわしまやまだ(現川島町)石塚いしづかが境となっており、このほか、らんひ谷(現川島町乱飛)別所堂べつしよどう(同別所谷)奥ヵ野おくかのノ谷・さうめう・智積ノ横山・智積中尾・琵琶びわヵかけの地名が出る。

史料上では文永一二年(一二七五)二月日荒木田章氏等申状(神宮文庫蔵)、同年と考えられる後欠荒木田章氏申状断簡(同文庫蔵)に現れる。申状断簡によれば「当御厨者、上分拾石、口入米弐拾斛也」とあり、内宮への上分一〇石、口入神主の得分として祠官の収入となる口入米二〇石であった。「本口入所前々四禰宜公俊」は口入米二〇石を二分。一〇石は次男分として権禰宜清満、その子経時、さらに僧蓮導へと伝えられた。一方の嫡家分は「章氏以下面々各々□承之、已経数代之上、年々均分全無違乱」であったが、蓮導の猶子で代官であった経世とその父経盛が、嫡家分一〇石を「号御祈祷師、任貪欲、不顧先傍例、寄事於僧尼知行」せて押取しようとした。両者の相論は口入米に対する理解の相違が背景にあり興味深い。申状断簡によれば経時が蓮導に譲るに際して「智積御厨口入所等領家預(御カ)祈祷者、為蓮導之計、以便宜神官、可令致忠勤之旨」を条件とした。僧侶では神宮に対する祈祷を行えないからである。そこで蓮導は猶子経世を代官として祈祷をさせることにした。章氏は智積御厨口入所(口入神主)が領家のため祈祷を行うのは、経時の代より始まったので「随件口入米、本自非(御カ)祈祷料所」と主張。申状においても「件米面々皆為祠官得分」であると述べている。経世は口入神主すなわち祈祷師で、口入米は祈祷にたいするものとしたのであり、「寄事於僧尼知行」せたのも僧尼では祈祷師たりえず、ゆえに口入米収取の権利なしということであろう。この相論の結果は不明。

さて前記二史料によれば、智積御厨は本領主の寄進により神宮領となり、本所は内宮、本領主が領家となったものであるが、その時期は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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