日本歴史地名大系 「智積御厨」の解説
智積御厨
ちしやくのみくりや
現四日市市智積を中心として存在した御厨。四至は時期により変動したが、荘域に含まれる地名は下記のとおりである。元応二年(一三二〇)七月一日藤原公行譲状(「綸旨口宣院宣等写」書陵部蔵)では
史料上では文永一二年(一二七五)二月日荒木田章氏等申状(神宮文庫蔵)、同年と考えられる後欠荒木田章氏申状断簡(同文庫蔵)に現れる。申状断簡によれば「当御厨者、上分拾石、口入米弐拾斛也」とあり、内宮への上分一〇石、口入神主の得分として祠官の収入となる口入米二〇石であった。「本口入所前々四禰宜公俊」は口入米二〇石を二分。一〇石は次男分として権禰宜清満、その子経時、さらに僧蓮導へと伝えられた。一方の嫡家分は「章氏以下面々各々□承之、已経数代之上、年々均分全無違乱」であったが、蓮導の猶子で代官であった経世とその父経盛が、嫡家分一〇石を「号御祈祷師、任貪欲、不顧先傍例、寄事於僧尼知行」せて押取しようとした。両者の相論は口入米に対する理解の相違が背景にあり興味深い。申状断簡によれば経時が蓮導に譲るに際して「智積御厨口入所等領家預
さて前記二史料によれば、智積御厨は本領主の寄進により神宮領となり、本所は内宮、本領主が領家となったものであるが、その時期は不明。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報