服部達(読み)ハットリタツ

デジタル大辞泉 「服部達」の意味・読み・例文・類語

はっとり‐たつ【服部達】

[1922~1956]文芸評論家。東京の生まれ。遠藤周作吉本隆明らと雑誌「現代評論」の創刊参加。昭和29年(1954)評論「新世代の作家たち」を発表し、第三の新人最初に理論づけた。作「われらにとって美は存在するか」。

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20世紀日本人名事典 「服部達」の解説

服部 達
ハットリ タツ

昭和期の文芸評論家



生年
大正11(1922)年2月13日

没年
昭和31(1956)年1月1日

出生地
東京市牛込区(現・東京都新宿区)

学歴〔年〕
京都帝国大学独文科〔昭和19年〕卒

経歴
学徒兵として昭和19年応召する。戦後は大学講師や通信社に勤務するが、胸を病んで25年以降療養する。その間「隊商」「現代評論」の同人となり、評論活動を開始。29年“第三の新人”を中心に新人を論じた「新世代の作家達」を「近代文学」に発表してデビュー。“第三の新人”と同世代の評論家として期待されたが、31年1月1日雪の八ケ岳で遺書を残して失跡、半年後死亡が確認された。没後「われらにとって美は存在するか」が刊行された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部達」の意味・わかりやすい解説

服部達
はっとりたつ
(1922―1956)

評論家。東京生まれ。第一高等学校理科を経て京都帝国大学独文科に学ぶ。1953年(昭和28)『隊商』『現代評論』の同人となり、翌54年『新世代の作家たち』『堀田善衛(ほったよしえ)論』を発表、新進評論家として認められる。とくに前者は、いわゆる「第三の新人」の文学の、最初の理論づけとして注目された。続いて「メタフィジック批評」を提唱、55年『われらにとって美は存在するか』を書く。マルクス主義的文学観が主流をなしていた時代に、いち早く審美的批評方法の確立を意図したが、突然雪の八(やつ)ヶ岳自殺を遂げた。

大久保典夫

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部達」の解説

服部達 はっとり-たつ

1922-1956 昭和時代後期の文芸評論家。
大正11年2月13日生まれ。京都帝大独文科に在学中,学徒出陣で応召。戦後「現代評論」の同人となり,「第三の新人」に最初の理論づけをした「新世代の作家たち」を発表。つづいて遠藤周作らと「メタフィジック批評」を提唱,「われらにとって美は存在するか」をかく。昭和31年1月1日八ケ岳で自殺。33歳。東京出身。

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367日誕生日大事典 「服部達」の解説

服部 達 (はっとり たつ)

生年月日:1922年2月13日
昭和時代の文芸評論家
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の服部達の言及

【第三の新人】より

…《文学界》(1953年1月号)に載った山本健吉の《第三の新人》が最初の紹介論文だが,当初は必ずしも前述の作家をさすものではなかった。服部達が《文学界》(1955年9月号)で〈劣等生・小不具者・市民〉を〈第三の新人〉の特色として挙げるにおよんでほぼ内容が定着した。すなわち社会性や思想性のつよかった戦後派作家に対して,日常生活のなかで弱者の意識,正義と無縁な小市民意識を基盤とする作風の持主として,前記の作家群を意味するにいたった。…

※「服部達」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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