改訂新版 世界大百科事典 「朝鮮共産党」の意味・わかりやすい解説
朝鮮共産党 (ちょうせんきょうさんとう)
1925年結成の第1次朝鮮共産党以降を朝鮮共産党とよぶが,朝鮮の共産主義運動はロシア革命後シベリア在住の朝鮮人によって始められた。1918年にハバロフスクで李東輝らが組織した韓人社会党はのちに上海に移って21年に高麗共産党となった。これとは別にボリシェビキ党員の金哲勲らは20年(19年説もある)イルクーツクでロシア共産党韓族部を組織,21年に高麗共産党に改称した。民族解放を第一の課題とする前者(上海派)と社会主義革命を優先させる後者(イルクーツク派)との間に激しい対立が生まれ,シベリアでは両派の武力衝突(自由市事変)も起きた。イルクーツク派に属する金在鳳,朴憲永らは23年前後に帰国し,思想団体火曜会に加入,青年団体,労農団体にも影響力を広げつつ共産党結成を準備した。25年4月17日,金在鳳ら18名がソウルで朝鮮共産党(朝共)を結成,金を責任秘書に選んだ。翌日には朴憲永,曺奉岩(そうほうがん)らにより高麗共産青年会もつくられた。この第1次朝共は,翌年春コミンテルンに承認され,正式にその朝鮮支部となったが,それ以前の25年末に幹部の多くが検挙され,他のメンバーも国外に亡命した。
第2次~第4次共産党
1926年2月に姜達永(きようたつえい)を責任秘書に第2次朝共が組織され,党組織の拡大,満州総局・日本部の設置,労農団体の指導のほか,民族主義者との統一戦線結成にも努めたが,六・一〇万歳運動の計画時での発覚により弾圧された。次いで日本で一月会を作っていた安光泉らが帰国してソウル青年会派をも含めて26年12月に第3次朝共(ML党)を組織した。幹部のめまぐるしい交替,派閥争いの継続など問題を抱えつつも,新幹会,槿友会への積極的参加,機関紙《大衆新聞》(東京発行)の刊行などを通じて数百人の党員を獲得した。28年初めに弾圧を受けたが,後継の第4次朝共が車今奉を責任秘書にして28年2月組織された。しかしこれも同年7月弾圧され,25年に結成された朝鮮共産党は3年あまりで壊滅した。国外の満州総局・日本総局(日本部を改称)も数回にわたる弾圧を受け,残った活動家も30年以降は中国共産党,日本共産党に入ることになった。
再建運動
コミンテルンは朝共の承認を取り消したうえで1928年12月〈朝鮮問題に関する決議〉(十二月テーゼ)を発表,労農大衆を基礎とする党再建を指示し,朝鮮内ではこれにもとづいて再建の試みが解放まで続けられた。有名な再建運動に,34-36年の李載裕を中心とする〈党再建ソウル準備グループ〉,39-41年の朴憲永らによる〈ソウル・コムグループ〉があるが,激しい弾圧と分派の未解消のため党再建はならなかった。解放直後朴憲永らを中心に朝鮮共産党が再建され,北にも朝鮮共産党北朝鮮分局(のち北朝鮮共産党)がつくられたが,46年それぞれ南朝鮮労働党,北朝鮮労働党に再編された。
→朝鮮労働党
執筆者:水野 直樹
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