木原光知子(読み)キハラ ミチコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「木原光知子」の解説

木原 光知子
キハラ ミチコ


職業
水泳選手 タレント

肩書
ミミ・スイミングクラブ代表

本名
木原 美知子(キハラ ミチコ)

生年月日
昭和23年 4月5日

出生地
兵庫県 明石市

出身地
岡山県 岡山市

学歴
山陽女子高卒 日本大学文理学部〔昭和46年〕卒

経歴
旭中学時代から日本水泳界のホープとして注目を集め、昭和39年山陽女子高校1年の時に当時最年少の16歳で東京五輪出場。女子400メートルメドレーリレーではアンカーとして4位入賞に貢献した。40年国体で100メートル自由形の日本記録をマークするなど、何度も日本記録を更新。41年バンコク・アジア大会では100メートル・200メートル自由形、400メートルメドレーリレー、400メートルリレーと4つの金メダルを獲得。42年メキシコプレ五輪の100メートル自由形でも優勝。日本大学在学中の43年、メキシコ五輪最終選考会となった日本選手権で100メートル自由形5位、200メートル棄権のため落選し、現役引退。“ミミ”の愛称で親しまれたアイドルスポーツ選手の先駆け的存在で、引退後は東レの水着モデルとしてタレントに転身。45年五輪出場を目指す水泳選手を描いたドラマ「金メダルへのターン!」に本人役で出演して話題を呼んだ。他にもバラエティ「クイズDEデート」の司会や、ドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」「おんな太閤記」などにも出演した。傍ら、スイミングアドバイザーとして水泳の指導にあたり、58年ケイ・アンド・エム・インターナショナルを設立、愛称から名付けたミミ・スイミングクラブを全国展開した。平成4年指導員養成のスポーツ・エデュケイション・アカデミー開設。17年日本水泳連盟理事に就任。19年親子水泳教室で小学生を指導中にくも膜下出血で倒れ急逝した。

没年月日
平成19年 10月18日 (2007年)

伝記
女の魅力はミステリアス女の仕事―地球は、私の仕事場です芸能界いろいろあらぁ〜な 木原 光知子 著残間 里江子 編,立木 義浩 撮影近江 俊郎 著(発行元 主婦と生活社朝日新聞社廣済堂出版 ’90’87’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「木原光知子」の意味・わかりやすい解説

木原光知子
きはらみちこ
(1948―2007)

水泳選手、水泳指導者、テレビタレント。兵庫県生まれ。本名美知子。中学校在学時から活躍し、1964年(昭和39)、岡山の山陽女子高校1年生のときにオリンピック・東京大会に出場、400メートルメドレーリレーの最終泳者をつとめ、自由形を泳ぎ4位入賞を果たす。日本大学在学中に現役を引退し、モデルやタレント活動を開始、「ミミ」の愛称で親しまれた。1983年より水泳教室「ミミスイミングクラブ」を始める。2005年(平成17)日本水泳連盟理事。07年より同連盟のキッズ育成プロジェクトを担当した。同年10月水泳指導中に倒れ、くも膜下出血により死去。

[編集部]

『木原光知子著『女の魅力はミステリアス』(1990・主婦と生活社)』『木原光知子著『水を得た女たち』(2004・法研)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木原光知子」の解説

木原光知子 きはら-みちこ

1948-2007 昭和後期-平成時代の女子水泳選手,指導者。
昭和23年4月5日生まれ。昭和39年高校1年のとき自由形短距離で東京五輪に出場。ミミの愛称でしたしまれ,41年アジア大会と42年メキシコプレ五輪の100m自由形で優勝。引退後,テレビタレントとして活躍するほか,スイミングクラブを経営した。平成4年スポーツ・エデュケイション・アカデミーを開設。17年日本水泳連盟理事。平成19年10月18日死去。59歳。岡山県出身。日大卒。本名は美知子。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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