日本歴史地名大系 「木屋平村」の解説 木屋平村こやだいらそん 徳島県:美馬郡木屋平村面積:一〇〇・九七平方キロ郡南東部にあり、西は穴吹(あなぶき)町・一宇(いちう)村、北は麻植(おえ)郡美郷(みさと)村、東は名西(みようざい)郡神山(かみやま)町、南は那賀(なか)郡木沢(きさわ)村、さらに南西部で一部三好(みよし)郡東祖谷山(ひがしいややま)村に接する。村域は剣(つるぎ)山(一九五四・七メートル)の北東麓に展開し、標高一〇〇〇メートルから一七〇〇メートル級の高山に囲まれ、森林面積が九三パーセントを占めている。中央部を穴吹川(上流部は木屋平川ともいう)が流れており、その谷底平野と山間傾斜地に人家が点在する。徳島市から西進し、川井(かわい)トンネルを抜けて村域に入り、穴吹川沿いに上流へと進み、剣山見(み)ノ越(こし)を経由して一宇村・貞光(さだみつ)町と通り香川県坂出市に至る国道四三八号が走っている。また同四九二号が川井付近で四三八号から南へ分岐し、穴吹川に沿って下流へと向かい、穴吹町に通じている。なお昭和四八年(一九七三)美馬郡に編入されるまでは、麻植(麻殖とも書く)郡に属していた。古代の麻殖(おえ)郡は大嘗祭に木綿や麁布(荒妙)などを貢進した阿波忌部氏の本拠地で、忌部氏の末裔という当地の三木家は中世のものではあるが、荒妙貢進に関連する文書を伝えている。中世には国衙領種野(たねの)山(麻植山ともいう)のうちで、当村域は河井(かわい)名(のちの川井村)、かし原(わら)(樫原)名・三木(みつぎ)名(合せてのちの三ッ木村)、大浦(おおうら)名(のちの木屋平村)などで構成されていた。 木屋平村こやだいらむら 徳島県:美馬郡木屋平村木屋平村[現在地名]木屋平村 下名(しもみよう)・八幡(やはた)・森遠(もりとお)・弓道(ゆどう)・谷口(たにぐち)・谷口カケ・太合(たいごう)・太合カケ・川上(かわかみ)・川上カケ川井(かわい)村の南西に位置し、村域は剣(つるぎ)山(一九五四・七メートル)の北東斜面、穴吹(あなぶき)川最上流域の山間に展開する。近世には麻植(おえ)郡に属し(初期には那西郡とされる場合もあった)、南は那賀(なか)郡岩倉(いわぐら)村(現木沢村)、西は美馬郡一宇(いちう)山(現一宇村)、東は名西(みようざい)郡上山(かみやま)村上分(かみぶん)(現神山町)。木屋平は小屋平とも書き、また木屋平山・小屋平山ともいった。「阿波志」によると、村内は下名・森遠名・谷口名・太合名・川上名の五ヵ名で構成されていたという。中世には一帯は大浦(おおうら)とよばれていたと考えられる。この大浦のなかには瀬津・コヤ平・宇津井歩などが含まれ、瀬津は現在の瀬津原(せづばら)、宇津井歩は同内宇夫(うちぶ)、あるいは川井にあてられている。なお阿波忌部氏の裔である三木氏の一族が平安時代末期に谷口に移住して大浦氏を名乗ったとの伝承や、中世に地内森遠城に拠った小屋平氏は平知盛の末であるとの伝承がある。〔中世〕嘉暦二年(一三二七)三月八日の種野山在家年貢等注進状案(三木家文書)に「大浦」とみえ、大浦には公方分除在家六宇と定在家一一宇の計一七在家があり、大浦として絹の織賃四七五文・皮代四六五文・御弓正月廻銭四貫六〇〇文・三日厨銭一四四文の合せて公事銭五貫六八四文を負担し、大浦地頭名は二貫三九二文、大浦預名は一貫四〇〇文、「大浦預名瀬津」は五〇〇文の公事銭を負担している。また田地の所当銭として大浦三六〇文がみえ、「但コヤ平ノ大田河成ヲ御モチイナク被責取」の注記がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by