一宇村(読み)いちうそん

日本歴史地名大系 「一宇村」の解説

一宇村
いちうそん

面積:九七・八八平方キロ

郡南部の西寄りにあり、北は貞光さだみつ町・半田はんだ町、東は木屋平こやだいら村、南西は三好みよし東祖谷山ひがしいややま村。つるぎ山山系の北斜面、北流して吉野川に流れ込む貞光川の上流域に展開する山村で(貞光川の上流を一宇川ともいう)、集落は貞光川やその支流であるかた川・明谷みようだに川などの川沿いに点在する。地元では一般に「いっちゅうそん」と発音する。貞光町から貞光川・一宇川沿いに南下して剣山に向かう国道四三八号が村の中央部を縦断する。令制以来美馬郡に属した。南北朝時代には北朝方の新守護細川氏に反抗する旧守護小笠原氏や同氏にくみする祖谷山や木屋平の山間の在地武士勢力とともに南朝方であったものと考えられ、地内には南朝方の武将新田氏や脇屋氏を祀る新田につた神社が赤松あかまつ大横おおよこ桑平くわだいら・明谷の四ヵ所にある。郷村帳類でみると近世には一宇山の一村で構成されていた(一宇山は一宇村ともみえる)。しかし一八世紀半ば頃になると一宇山は実質的に一宇口山いちうくちやま村と一宇奥山いちうおくやま村に分れ、庄屋もそれぞれ別に置かれた。

明治二二年(一八八九)の町村制施行により一宇口山村と一宇奥山村の両村が合併して一宇村が成立、現在に至る。同二五年の産物を生産額の大きい順にあげると葉煙草・麦・里芋・材木・ソバ、巻柿(干柿を加工したもの)トウモロコシ、コンニャク玉などであった。

一宇村
いちうむら

[現在地名]物部村市宇いちう

別役べつちやく村の東、西流する槙山まきやま川上流域に近く、蛇行する川の両岸は山が迫り、山腹に所々家屋が点在する。北東別府べふ村。「土佐州郡志」に土居どい野々内ののうち大日裏おおひうら賀茂之峯かものみねの小集落が記される。大忍おおさと庄槙山郷に属し、市宇・居中・伊中とも記されるが、江戸時代は一宇が一般的。天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳に「是ヨリ居中ノ村」として一二筆計五反が記される。「居中土ゐ」の屋敷一筆を除きすべて山畠屋敷で、居屋敷はなく、居中勘解由の給地。居中(一宇)氏は専当氏とも関係が深く、応永年間(一三九四―一四二八)を中心に活躍し、別役氏・根木屋氏とも縁戚で、勘解由は長宗我部元親に仕えて戦功をたてたという。

一宇村
いちゆうむら

[現在地名]上勝町あさひ

田野々たんの村の西に位置し、勝浦川支流の旭川が東流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「一宇村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 一宇村」とみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。貞享三年(一六八六)検地帳(上勝町誌)では田四町一反余・高三九石余、畠五町六反余・高一六石余。同年の上毛帳(御大典記念民政資料)では家回り・田の脇・除田などに植付けた茶・楮の坪数などが記載され、総計一一二筆で、茶数一千一一七坪・高一一石一斗七升、楮数三八三畔・高一石一斗四升九合、桑数三本・高二升一合、漆数二本・高八合、ただし三斗余が川成の扱いで有高一一石九斗七升となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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