江戸後期の博徒。忠次(治)郎ともいう。上野国佐位郡国定村の出身。中農以上に属する長岡与五左衛門の長男。21歳のとき博徒の縄張を譲られて以来博徒の親分となり,1834年(天保5)縄張争いから同じ博徒の島村の伊三郎を殺害し,有名となる。42年賭場の最中に関東取締出役の急襲をうけ,かろうじて脱出したが,子分浅次郎(俗に板割の浅太郎)が密告したのではないかと疑い,浅次郎に彼の伯父で出役の手先である道案内役の勘助とその子太郎吉を殺させた。以来取締出役のきびしい追及をうけ,赤城山から信州路などへ潜伏した。49年(嘉永2)縄張を子分の境川安五郎に譲り,翌年故郷に戻ったが,脳溢血で倒れまもなく逮捕された。早速江戸送りとなり,50年12月21日上野国吾妻郡大戸村で関所破りなどの罪で磔(はりつけ)に処せられた。なお,天保飢饉で農民を救済した義俠として芝居などにとりあげられるが虚説が多い。
執筆者:森 安彦
忠次が才智,胆力,人情ともにすぐれた義賊,俠客として英雄化された主因は,幕末為政者の腐敗と無能にあったといえよう。不逞の遊民,長脇差者が代官らの無力をあばき活躍したとする痛快味と真実感が,後世にいたる享受層に支持され,凶悪な実像とは別の忠次像がしだいに形成された。演劇,講釈,浪曲,映画など,幕末期から現代にいたる忠次美化志向の淵源は,実録本《嘉永水滸伝》(成立年未詳)にすでに見られ,その後,大西庄之助作《国定忠治実伝》(1879刊),柳水亭種清作《正本国定忠次俠勇伝》(1880刊),また講釈(初世西尾麟慶作),浪曲等で拡大された。演劇では1884年東京市村座初演の《上州織俠客大縞(じようしゆうおりたてしのおおしま)》(3世河竹新七作)の歌舞伎をはじめ,1919年新国劇での《国定忠治》(行友李風作,沢田正二郎主演で,この一座の代表的演目となる),また1932年初演《国定忠次》《続国定忠次》(真山青果作)では貧農を救恤(きゆうじゆつ)する内省的な忠次像が描かれ反響を呼んだ。そのほか山崎紫紅,川村花菱,木村錦花,長谷川伸らの作もあり,忠次を否定的に描いた村山知義の作品もある。映画では伊藤大輔監督《忠次旅日記》などが著名。
執筆者:小池 章太郎
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1810~50.12.21
江戸後期の博徒。上野国国定村(現,群馬県伊勢崎市国定町)に富農の子として生まれる。隣村の田部井村を根拠に賭場を開催し,博徒となった。1834年(天保5)博徒間の抗争に関与して人を殺し,赤城山中を根城とする。42年,役人の配下を殺害し,関所を破って信濃へ逃亡,のち戻るが50年(嘉永3)捕縛され磔(はりつけ)となった。
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…1970年ころから人口が増加している。北部の国定は幕末の俠客国定忠次の出身地。【千葉 立也】。…
…〈第三部御用篇〉は,伊藤大輔が唐沢弘光カメラマンと組み,〈移動大好き〉と呼ばれて時代劇のスタイルに新風を吹き込むことになる名コンビの第1作である。 上州の博徒国定忠次(大河内伝次郎)が,役人に追われて流浪し,周囲の人間に裏切られ,落ちていく悲劇を描く。その底に流れているのは権力に対する反抗の思想で,忠次が命をかけてたたかう相手は御用ちょうちんに象徴される権力である。…
※「国定忠次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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