日本大百科全書(ニッポニカ) 「未発已発論」の意味・わかりやすい解説
未発已発論
みはついはつろん
『中庸(ちゅうよう)』第1章に「喜怒哀楽の未(いま)だ発せざる、これを中(ちゅう)と謂(い)う。発して皆な節に中(あた)る、これを和と謂う」として、「未発の中」を説いた一節に由来する議論。朱子学の心性論、修養論の重要な課題となったもので、喜怒哀楽(すなわち情(じょう))がいまだ発動しない以前の「未発」の状態と、情が発動した「已発」の状態とにおける心のあり方、そしてその修養のくふうが問われた。儒教倫理学における思弁の深まりがみられる一テーマであり、朱熹(しゅき)(朱子)の定論確立の端緒もこの問題にあった。
朱熹によれば、心がまだ動かぬ状態を未発といい、心は静で、中正を得た、本来的な「性」の状態にある。心が外物と接することによって動となると情が現れるのが「已発」である。そして、未発のところこそ心の本体であって、ひとたび心が用として動いて情が発動しても過不及なき「和」なる発出をするとは限らない。気質の阻害によってしかるべき節度にぴたりと中(あた)らぬ危険性がある。そこで朱熹は、未発の涵養(かんよう)(存養。心を静的場において保持するくふう)と已発の省察(察識。心が事物と応対する場においてその理非曲直を観察するくふう)とを一本化し、居敬のくふうを主張し、いついかなるときにあっても心の主体性を保持する方法とした。
[大島 晃]
『島田虔次著『朱子学と陽明学』(岩波新書)』▽『荒木見悟編『世界の名著 続4 朱子・王陽明』(1974・中央公論社)』