本田宗一郎(読み)ホンダソウイチロウ

デジタル大辞泉 「本田宗一郎」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐そういちろう〔‐ソウイチラウ〕【本田宗一郎】

[1906~1991]技術者企業家。静岡の生まれ。自動車修理工場に徒弟奉公したのち、昭和21年(1946)本田技術研究所を開設。同23年オートバイメーカー本田技研工業を創業した。

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共同通信ニュース用語解説 「本田宗一郎」の解説

本田宗一郎

1948年にホンダを設立し、国際的な企業に育てた。戦後日本の高い経済成長を象徴する名経営者とされる。自転車に付ける補助エンジンを手がけた後、二輪車に進出し「スーパーカブ」などで市場をけん引した。63年には四輪車業容を拡大して「シビック」などをヒットさせた。自動車レースの最高峰F1参戦などモータースポーツへの情熱でも知られる。91年に84歳で死去、静岡県出身。

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精選版 日本国語大辞典 「本田宗一郎」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐そういちろう【本田宗一郎】

  1. 技術者、実業家。静岡県出身。自動車修理工場に徒弟奉公したのち、昭和二一年(一九四六)本田技術研究所を開設。同二三年本田技研工業を創業。オートバイ、自動車の開発、製造で、海外にも進出。明治三九~平成三年(一九〇六‐九一

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20世紀日本人名事典 「本田宗一郎」の解説

本田 宗一郎
ホンダ ソウイチロウ

昭和期の実業家 本田技研工業創業者。



生年
明治39(1906)年11月17日

没年
平成3(1991)年8月5日

出身地
静岡県天竜市

学歴〔年〕
浜松高工(のちの静岡大学工学部)機械科卒

主な受賞名〔年〕
藍綬褒章〔昭和27年〕,毎日工業デザイン賞〔昭和35年〕,メルクリオ・ドロ賞(イタリア政府)〔昭和46年〕,イタリア共和国功労勲章グランデ・ウフィチャーレ賞〔昭和53年〕,ベルギー王冠勲章コマンダー章〔昭和54年〕,ホーリー・メダル(米国機会学会)〔昭和55年〕,勲一等瑞宝章〔昭和56年〕,レジオン・ド・ヌール勲章オフィシエ章〔昭和59年〕,スウェーデン王国北極星勲章,ダイヤモンド・パーソナリティ賞〔昭和61年〕,グローバル500賞(UNEP)〔昭和62年〕,国際自動車連盟ゴールデンメダル賞〔平成2年〕,米国二輪自動車工業会特別賞〔平成3年〕,ジェームズ・ワット国際ゴールドメダル(平3年度)〔平成4年〕

経歴
天竜市の鍛冶屋に生まれ、高等小学校卒業後上京。大正11年東京の自動車修理工場・アート商会に奉公し、昭和3年浜松でアートモーター社を創業。工場長の傍ら浜松高工機械科に聴講生として学び、9年東海精機を設立し社長。戦後、20年に本田技術研究所を設立、エンジン付自転車を思い付き好評を博す。23年本田技研工業を設立、オートバイの生産開始、以来、軽自動車、小型自動車と次々に開発、“ホンダ”の名を世界に広めた。48年社長を退任、最高顧問となる。その後は国際的な文化交流に情熱を注ぎフランスの芸術文化勲章を初め、外国からの受章多数。平成元年には日本人として初めて米国自動車殿堂入りした。また、行政改革を推進するために手弁当で全国を辻説法して歩く一方、カーレースに出場したり、熱気球やハンググライダーにも挑戦した。著書に「俺の考え」「スピードに生きる」「私の手が語る」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本田宗一郎」の意味・わかりやすい解説

本田宗一郎
ほんだそういちろう
(1906―1991)

実業家。静岡県生まれ。1922年(大正11)高等小学校を卒業し、東京・湯島の自動車修理工場東京アート商会に徒弟奉公して、自動車の修理技術を身につける。1946年静岡県浜松市に本田技術研究所を創設し、内燃機関、車両の製造研究を始める。1947年原動機付自転車用エンジン「ホンダA型」を生産、1948年同社を本田技研工業と改め、オートバイのエンジンと車体の一貫生産を開始、1955年国内生産1位となる。1963年軽トラックと小型スポーツカーを発表、1973年アメリカのマスキー法(大気汚染防止法)に合格した低公害エンジン「CVCC」搭載の「シビック」を発売、大当たりして会社の基盤固めに成功する。1959年から同社オートバイによる国際レースに参加、1964年からは自動車レースの最高峰フォーミュラ1(F1)にも参加。1973年に最高顧問。平成3年8月5日没。

[編集部]

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百科事典マイペディア 「本田宗一郎」の意味・わかりやすい解説

本田宗一郎【ほんだそういちろう】

自動車技術者,経営者。静岡県生れ。二俣尋常高等小学校卒業後,東京本郷の自動車修理工場アート商会入社。1928年浜松でアート商会浜松支店を設立,自動車修理業として成功したが,メーカーを志し,エンジンやピストリングの研究を始める。しかし失敗が続き,浜松高等工業で1938年から2年間基礎知識を学ぶ。1946年本田技術研究所を個人で創業,自転車に小型エンジンを載せた,通称〈バタバタ〉を発売。1948年本田技研工業(株)に改組,1949年にはオートバイ〈ドリーム号〉を発売,以後ベンリイ号,スーパーカブ号などを次々に開発・発売し,二輪車では世界のトップ・メーカーとなった。四輪車にも進出し,排気ガスを抑えたCVCCエンジンを開発した。1973年社長を退き,最高顧問に。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本田宗一郎」の意味・わかりやすい解説

本田宗一郎
ほんだそういちろう

[生]1906.11.17. 静岡
[没]1991.8.5. 東京
実業家。本田技研工業の創業者。 1922年高等小学校卒業。自動車修理工場に勤めて修理技術を修得。 1928年浜松市で自動車部品製造会社設立。 1948年本田技研工業を創立。自転車の補助エンジンから始めてオートバイ生産に着手,1963年には四輪車製造に進出。 1959年よりオートバイの国際レース,1964年より F1レースに参加,「ホンダ」の名を世界的にした。「会社は一族のものではない」として,1973年社長引退。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本田宗一郎」の解説

本田宗一郎 ほんだ-そういちろう

1906-1991 昭和時代の技術者,実業家。
明治39年11月17日生まれ。自動車修理工見習ののち,昭和3年浜松アート商会を創業。21年本田技術研究所,23年本田技研工業を設立してオートバイ製造にのりだす。36年イギリスのマン島のオートバイレースで圧勝,同社は世界のホンダとなる。37年自動車生産に参入,低公害エンジンの開発に成功。48年社長を辞して最高顧問。平成3年8月5日死去。84歳。静岡県出身。
【格言など】成功とは99パーセントの失敗に支えられた1パーセントである

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本田宗一郎」の解説

本田宗一郎
ほんだそういちろう

1906.11.17~1991.8.5

昭和期の実業家。静岡県出身。第2次大戦前は自動車修理工場経営やピストンリング製造に従事,1946年(昭和21)静岡県浜松市に本田技術研究所を創立,モーターバイクの製作を開始した。48年本田技研工業を設立し,62年自動車生産に参入。73年社長を退任。89年(平成元)アメリカの自動車殿堂入りした。

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367日誕生日大事典 「本田宗一郎」の解説

本田 宗一郎 (ほんだ そういちろう)

生年月日:1906年11月17日
昭和時代の技術者;実業家。本田技研工業社長
1991年没

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世界大百科事典(旧版)内の本田宗一郎の言及

【本田技研工業[株]】より

…二輪車のトップ・メーカーで,四輪車の生産でも有数の会社。1946年に本田宗一郎(1906‐91)が浜松で個人創業した,内燃機関,車両の研究,製造を目的とする本田技術研究所が前身である。通称〈バタバタ〉という,自転車に旧軍隊の小型エンジンをつけたものを発売,大好評を博した。…

※「本田宗一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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