生没年不詳。中国、元代初期、13世紀の後半に活躍した数学者。字(あざな)は漢卿(かんけい)、号を松庭といった。華北の北京(ペキン)に近い燕山(えんざん)に生まれ、20余年間にわたって各地を遊歴し、数学を教えたといわれ、最後には、当時商業が栄えていた揚子江(ようすこう)下流の町、揚州(ようしゅう)に落ち着き、数学教授をして生活を送った。これ以前、中国の数学史に出てくる数学者というのはほとんどすべて政府の官僚であるが、民間人で数学を専門の職業とする朱世傑のような人物が出てきたことは新しい動きとして注目に値する。その背景には、この時代になって、商工業が発達し、数学への要求が増えてきた社会的条件があげられる。
朱世傑の著書には1299年の『算学啓蒙(さんがくけいもう)』と、その4年後の1303年に著した『四元玉鑑(しげんぎょくかん)』がある。『算学啓蒙』は、位取りや単位、正負の数の四則、売買、比例、平面図形の求積などを含む優れた数学書であるが、その最後のほうに、当時完成されつつあった代数学の一種で、算木(さんぎ)を用いて一元高次方程式を解く、いわゆる天元術(てんげんじゅつ)を使用した部分がある。この書は、朝鮮を経て、日本にも伝わり、江戸時代の数学者に大きな影響を与えた。和算家関孝和(たかかず)の弟子の建部賢弘(たけべかたひろ)は1690年(元禄3)『算学啓蒙諺解大成(げんかいたいせい)』を著した。『四元玉鑑』は四元の高次方程式を解く方法を記載、13世紀の中国にきわめて高等な数学があったことを示しているが、これは実用には遠かった。この書は日本には伝わらなかった。
[大矢真一]
中国,元代初期,13世紀の後半活躍した数学者。生没年不明。字は漢卿,号は松庭。燕山(北京)の人。20余年にわたり各地をまわり,最後には当時商工業の繁栄していた揚州の地において数学教授の生活を送った。ほとんど文人官僚によって独占されていた中国の数学が,民間で数学を職業とする専門家朱世傑を生みだしたことは,稀有な現象である。その背後には,当時の都市における商工業の発達という社会的条件が存在していただろう。1299年(大徳3)に《算学啓蒙》を著し,その後4年を経て《四元玉鑑》を著した。このころ中国では一種の代数学である天元術が創案されたが,《算学啓蒙》はこの天元術を説いた書物としてすぐれている。この書は明代に失われ,清の中葉になってその朝鮮重刊本が発見されて,朱世傑は一躍有名となった。ところが日本では和算興隆期に朝鮮版がもたらされ,1658年(万治1)に和刻本が刊行され,ついで関孝和の高弟建部賢弘(たけべかたひろ)は《算学啓蒙諺解大成》を著し,和算の発達に大きな影響を与えた。朱世傑の第2の著《四元玉鑑》は清の中葉に発見され,若干の注解書が中国で刊行された。《算学啓蒙》の天元術はもっぱら一元代数方程式を論ずるのに対し,《四元玉鑑》は四元を含む代数方程式を論じている。13世紀にきわめて高踏的な数学が中国に生まれていたわけだが,こうした技巧は他の国の数学書にはみられない。
執筆者:藪内 清
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1300年ごろの元代に活躍した数学者朱世傑の著述。3巻20門に分け259問を含み,趙城の序(1299∥大徳3)を付して刊行された。…
…なお李冶には《益古演段》(1259)の著述がある。元の時代になって朱世傑が書いた《算学啓蒙》はやはり天元術を紹介しているが,江戸時代の数学者にもてはやされ,和算の発達に大きな貢献をした。朱世傑はまた《四元玉鑑》(1303)を著し,四元による計算法を説いたが,この書には級数の和を求める問題が多く含まれ,また(a+b)nを展開した時の係数を表示した図がある。…
※「朱世傑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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