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関孝和 せきたかかず

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

関孝和
せきたかかず

[生]寛永19(1642)以前
[没]宝永5(1708).10.24. 江戸
江戸時代初期の和算家。通称新助,号は自由亭。甲府藩主徳川綱重 (家光の3男) ,綱豊 (のちの6代将軍家宣) に仕え,綱豊が綱吉の養子となって西の丸に入る (1704) と,孝和も幕府の御納戸組頭となった。

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デジタル大辞泉の解説

せき‐たかかず【関孝和】

[1640ころ~1708]江戸前期の数学者。上野(こうずけ)の人。関流和算の祖。中国の天元術を改良して新しい算法を創造、帰源整法と命名。著「発微算法」。

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百科事典マイペディアの解説

関孝和【せきたかかず】

数学者。通称新助,号自由亭。甲府藩主徳川綱重とその子綱豊(後の将軍家宣)に仕えた。《発微算法》(1674年)で初めて筆算による代数(点竄(てんざん)術)を創始,方程式論高次方程式近似解法,行列式(1683年),正多角形,円弧の長さを求める方法等を研究,和算の発展に大きく貢献した。
→関連項目円理建部賢弘魔方陣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

関孝和 せき-たかかず

1640ごろ-1708 江戸時代前期-中期の和算家,暦算家。
寛永17年ごろの生まれ。幕臣。吉田光由(みつよし)の「塵劫(じんこう)記」で独学したといわれ,筆算式の代数学や方程式の研究,行列式の発見,円に関する数式の樹立など,日本独自の数学である「和算」を確立。その水準は同時代の西洋の数学に匹敵した。門人に建部賢弘(たけべ-かたひろ)ら。宝永5年10月24日死去。69歳?本姓は内山。字(あざな)は子豹。通称は新助。号は自由亭。著作に「発微(はつび)算法」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

関孝和

没年:宝永5.10.24(1708.12.5)
生年:寛永17頃(1640)
江戸前期の和算家,暦算家。中国の数学に依存していた日本の数学を日本固有のものに高めた。故に日本独自の数学「和算」をいう場合,孝和以降の数学を指す場合が多い。通称は新助,字は子豹,号は自由亭。父の内山永明は徳川忠長に仕え,主家断絶のため上野国藤岡(藤岡市)に移住し,寛永16(1639)年江戸城の天主番(150石)となる。孝和は永明の次男で,藤岡もしくは江戸小石川で生まれたとされ,のち関五郎左衛門の養子となる。甲府の徳川綱重およびその子綱豊(のち家宣)に仕え,勘定吟味役として会計や検地の仕事に携わる。宝永1(1704)年綱豊は5代将軍綱吉の養子となり江戸城に入る。孝和も幕府直属の武士となり,御納戸組頭,250俵10人扶持,のち300俵となる。 その業績は,前代と隔絶しているが,西洋数学の影響はなく,中国の数学を敷衍し程度を高めたことと,当時未解決の問題を整理し解答を与え,大きな理論や定理にまとめたことである。列挙すると,代数式の表し方とその計算法,数字係数方程式のホーナーの解法の完成,方程式の判別式と正負の解の存在条件,ニュートンの近似解法,極大・極小論の端緒,行列式の発見,近似分数,不定方程式の解法,招差法の一般化,ベルヌーイ数の発見,正多角形に関する関係式,円に関する計算,ニュートンの補間法,パップス・ギュルダンの方法,捕外法,円錐曲線論の端緒,数学遊戯の研究などである。少年のころ,吉田光由の『塵劫記』で自習し大成したらしい。中国13世紀末の『算学啓蒙』や『楊輝算法』などを研究し,これにより代数方程式作り方やその解き方,および不定方程式の研究を完成したと考えられる。 最初の研究発表は,沢口一之の『古今算法記』(1671)の遺題の解答をまとめ,代数方程式の作り方や整理の仕方を公表した『発微算法』(1674)である。この著書は一部の和算家から誤りがあると非難された。松田正則の『算法入門』(1681)による非難に対しては,関の弟子建部賢弘が『研幾算法』(1683)で反論し,さらに建部は『発微算法』を詳しく解説した『発微算法演段諺解』(1685)を出版した。これにより関の代数式についての研究は広く理解された。没後に弟子の荒木村英により,関の研究の一部が『括要算法』(1712)としてまとめられた。著作は少なくないが,世間では『発微算法』と弟子の書によって知られただけであった。しかし生存中から関の研究に対する評判は高く,また後継者が次々とすぐれた研究を発表したため関流の名は広く知られた。下平和夫 天文・暦法の面では当時は宣明暦の欠陥が問題となっており,斬新な暦法として「授時暦」が注目されていた。孝和は延宝8(1680)年『授時発明』,その翌年にはその計算に必要な『授時暦経立成之法』を著した。また『天文数学雑著』『関訂書』などの天文暦学に関する著書もある。渋川春海は授時暦を用いて貞享改暦に成功したが,そこに用いられている「弧背術」という数学の手法は理解できないと弟子の谷秦山に述べている。当時としては「弧背術」をはじめ『授時暦』に使われている数理をよく理解できたのは孝和のみであったろうといわれる。<著作>『関孝和全集』<参考文献>日本学士院編『明治前日本数学史』2巻

(内田正男)

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江戸・東京人物辞典の解説

関孝和

1640?〜1708(??年〜宝永5年)【和算家】独学で和算を大成。筆算で精緻な円周率を算出した、日本の天才数学者。 和算家。甲府藩主徳川綱重・綱豊(のち家宣)に仕え、綱豊が5代将軍綱吉の養子になると同時に、直参の旗本となった。独学で数学を学び、筆算式の代数学の確立や方程式・行列式の創始など、日本における数学研究を高めた。和算は関孝和から始まるとされる。著書に「発微算法」など。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版の解説

せきたかかず【関孝和】

1640ころ‐1708(寛永17ころ‐宝永5)
江戸中期の数学者。江戸時代の高等数学は関孝和から始まる。通称は新助,字は子豹,自由亭と号した。幕臣内山七兵衛永明の第2子で,関家の養子となる。甲府宰相徳川綱重およびその子綱豊に仕え,勘定吟味役となる。1704年(宝永1)に綱豊が5代将軍徳川綱吉の世子となり,綱豊に従って江戸城に入る。御納戸組頭となり,250俵十人扶持,後に300俵となる。06年11月に致仕し,小普請組に入る。東京新宿区浄輪寺の孝和の墓には,宝永5年10月24日卒となっている。

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大辞林 第三版の解説

せきたかかず【関孝和】

1642頃~1708) 江戸前期の数学者。生地は上野国とも江戸ともいわれる。和算関流の開祖。帰源整法(筆算式代数学)を確立し、方程式の解法、行列式・正多角形・円周率など多方面に業績を残す。著「発微算法」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

関孝和
せきたかかず
(1640ころ―1708)

江戸中期の数学者。後世「算聖」と称される。通称は新助、字(あざな)は子豹(しひょう)、自由亭と号した。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』その他によると、孝和(「こうわ」とも読む)は、内山永明(ながあきら)の第2子(または第3子)に生まれる。内山氏は芦田(あしだ)五十騎の一つで、初め駿河大納言(するがだいなごん)と称された徳川忠長に仕えたが、忠長が高崎へ幽閉されたとき、内山氏は藤岡(群馬県)に居を構えた。のちに第3代将軍徳川家光に召し出され、天守番となる。孝和は関家へ養子に出たが、どの関家か未詳。芦田五十騎のなかの一家である。孝和の母は湯浅与右衛門の娘で、湯浅氏は安藤対馬守(つしまのかみ)の家来である。孝和は関家に養子に入ったのち、甲府の徳川綱重(つなしげ)とその子綱豊(つなとよ)(後の第6代将軍家宣(いえのぶ))に仕えた。甲府では勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)(会計監査役)を務めた。1704年(宝永1)綱豊が第5代将軍綱吉(つなよし)の養子となり、江戸城西の丸へ入ったため、孝和も幕府直属の侍となった。御納戸(おなんど)組頭で、俸禄(ほうろく)は御蔵米250俵および十人扶持(ぶち)で、のちに300俵となった。06年に病のため職を辞し、宝永(ほうえい)5年10月24日没す。孝和には子がなく、兄の子新七(または新七郎)を養子としたが、甲府勤番中、不行跡のため追放され、関家は絶えた。孝和の墓は、内山家の菩提(ぼだい)寺である東京都新宿区弁天町の浄輪寺にある。
 関孝和がどこでだれに数学を教わったかは、まったくわかっていない。『塵劫記(じんごうき)』を独学で読破し、数学の力を得たと伝えられる。孝和の20歳前後は、『算法闕疑抄(けつぎしょう)』や『算俎(さんそ)』などりっぱな数学書が次々と出版されたころであり、独学のための手本に困ることはなかった。『塵劫記』から始まる遺題継承の最盛期であり、算額の奉掲もいよいよ盛んになろうとしている時期である。孝和はこれらの問題に刺激され、夢中になって数学を勉強したものと思われる。また、中国の古算書もできる限り探して読破した。孝和の業績を整理してみれば、このことは明らかである。関孝和が最初に世間に発表したのは、沢口一之(さわぐちかずゆき)の『古今算法記』にある遺題の解答で、『発微算法(はつびさんぽう)』(1674)と題して刊行した。本書は、中国で発明された器具代数である天元術を、連立多元高次方程式が筆算でできるように改良し、その計算を演段術と称して説明した算書である。この演段術は、弟子の建部賢弘(たけべかたひろ)によって詳しく解説され、『発微算法演段諺解(えんだんげんかい)』(1685)として世に出た。
 関孝和の業績をまとめると次のようになる。(1)演段術の創始、(2)ホーナーの近似解法、(3)補間法、(4)方程式の判別式、(5)導関数に相当する式、(6)極値、(7)方程式の解の変換、(8)各種の級数、(9)ベルヌーイ数、(10)正n角形の辺と対角線の関係式、(11)招差法、(12)整数論、(13)魔方陣、円攅(えんさん)(円陣のこと)、(14)エクストラポレーション、(15)各種の曲線、(16)パップス・ギュルダンの方法、(17)天文、暦についての多くの研究、などである。
 関孝和の取り扱った問題のほとんどは従来の問題で、それに解法を与えたのであるが、孝和の業績により数学が著しく高度になった。孝和は後継者にも恵まれ、弟子の建部賢明(かたあき)・賢弘兄弟により孝和の業績はまとめられ、中根元圭(げんけい)に伝えられ、さらに松永良弼(よしすけ)や久留島義太(くるしまよしひろ)に伝わって、日本の数学はますます高度な内容へ進歩することができたのである。後世、数学(和算)といえば、関流とまで称せられるようになった。[下平和夫]
『平山諦著『関孝和』(1981・恒星社厚生閣)』

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世界大百科事典内の関孝和の言及

【遺題継承】より

…このように,和算が大きく飛躍するきっかけを作ったのも遺題継承による。和算を高等数学にまで程度を高めた関孝和も,礒村吉徳の《算法闕疑抄(けつぎしよう)》(1659)の遺題100問,村瀬義益の《算法勿憚改(ふつたんかい)》(1673)の遺題100問の解答集を作っている。関孝和が世間に広く知られるきっかけを作った著書の《発微算法》(1674)は,沢口一之の《古今算法記》(1671)の遺題15問の解答書で,本書の中で,関孝和は,文字係数の多元高次方程式の表し方を示したのである。…

【行列式】より

…もっと変数の多い場合を含めて考えて,行列式が考え出された。 和算では関孝和が1683年の著書《解伏題之法》で交式斜乗の法と称して扱ったが,三次までは正しく,四次以上は誤っていた。井関知辰は1690年の《算法発揮》で正しく扱った。…

【関流】より

…流派によってはほんの少し数式の表し方に違いのあることもある。関流というのは,関孝和の弟子,あるいは孫弟子に教わったという意味である。関流という名称を初めて使ったのは関孝和の孫弟子松永良弼で,松永の弟子山路主住から関流何伝というようになった。…

【魔方陣】より

…日本では関孝和が単に方陣と名づけた。1,2,……,n2n×n個の数を正方形に並べて縦,横,斜めの和を一定にしたものであるが,種々の特徴がある。…

【和算】より

…明治以前の日本人が研究した数学。研究者により,その初めを,(1)上古,(2)1627年(寛永4)刊の吉田光由著《塵劫記(じんごうき)》,(3)74年刊の関孝和著《発微算法(はつびさんぽう)》とする3通りがある。
[奈良・平安時代]
 養老令(718)によれば,官吏養成のための学校である大学寮を設置し,現在の中学生くらいの少年がここで勉強した。…

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