江戸中期の和算家。不休と号した。寛文(かんぶん)4年6月江戸に生まれる。父直恒(なおつね)に四男あり、賢弘はその三男である。幼くして算数に興味をもち、13歳のとき兄とともに関孝和(せきたかかず)の門に入った。20歳のとき『研幾算法』を著す。天元(てんげん)術の書物である。22歳のとき、関孝和の著作『発微算法(はつびさんぽう)』(1674)を批判する学者がいるのに対し、『発微算法演段諺解(えんだんげんかい)』を著した。これは点竄(てんざん)術の書物である。これによって点竄術は一般に知られるようになった。続いて27歳のとき、中国の朱世傑(しゅせいけつ)の『算学啓蒙(けいもう)』(1299)を和訳して『算学啓蒙諺解大成』(1690)を著した。「諺解」は、漢文で書かれた本を和文で解釈したという意味である。賢弘の著作のうち刊本となった主要なものは以上のとおりすべて注釈書であるが、写本で残されたものには重要なものがある。その主要なものには『綴術算経(てつじゅつさんけい)』(1722)がある。これは将軍に献上した書物で、一般に普及した書物には『不休先生綴術』あるいは略して『不休綴術』とよばれている。これは『綴術算経』と内容に少異があるが、いずれも和算の方法論を書いたほとんど唯一の書物として世に知られている。なお彼の重要な仕事には『大成算経』20巻がある。これは関孝和、建部賢弘、その兄建部賢明(かたあき)の3人が合議して関流の数学を集大成しようと始めたものであり、初めは賢弘が中心となったが、中ごろ孝和は病気がちとなり、賢弘は公務に忙しくなったため、のちには賢明が取りまとめ、宝永(ほうえい)(1704~1711)の末に完成したものである。
賢弘は初め7代将軍家継(いえつぐ)に仕えたが、その没するや8代将軍吉宗(よしむね)に仕え重視され、日本総図製作を命ぜられ、1723年(享保8)完成した。元文(げんぶん)4年7月20日死亡。俸禄(ほうろく)300俵、関孝和と同じであった。
[大矢真一]
江戸中期の数学者。関孝和の弟子で,関の研究を助け,多くの優れた研究を残した。世界最初の(arcsinx)2のべき級数展開を示したことで名高い。幼名を源右衛門といい,後に彦次郎という。不休と号した。建部家は徳川家の右筆の家で,賢弘は建部直恒の三男である。長兄賢雄,次兄賢明に従って関孝和に数学を教わる。数え20歳で《数学乗除往来》(1674)の遺題49問の解答書《研幾算法》(1683)を刊行した。賢弘の著書で出版されたのは,関孝和の《発微算法》を解説した《発微算法演段諺解》(1685),中国の《算学啓蒙》(1299)を解説した《算学啓蒙諺解大成》(1690)である。賢弘の解説はていねいになされているので,きわめてわかりやすい。1683年(天和3)に,関孝和,建部賢明,賢弘の3人が協力して数学の集大成を行うことになった。28年かかって1710年(宝永7)に《大成算経》(20巻)として完成した。賢弘の業績中特筆すべきは,22年(享保7)の序がある《綴術算経》である。この数学書は弟子に示した数学方法論で,帰納法がいかにたいせつであるかを論じている。この書にある(arcsinx)2のべき級数表示に相当する公式は,後の和算家に大きな影響を与えた。指数1/2の二項級数を示したり,ディオファントスの不定方程式の近似解法など,優れた論文を残している。8代将軍徳川吉宗の信任があつく,天文暦学の顧問格となった。吉宗の命をうけ日本国総図を作る責任者となり,23年(享保8)に完成させたが今に伝わらない。また京都から中根元圭を呼び寄せ,中根に手伝わせて中国の《暦算全書》に訓点を入れた。建部の業績は,関孝和の陰に隠れ,また著述も少なく目だたないが,兄賢明とともに,その研究は独創的で,しかも関孝和の論文を整理して後世に伝えた業績は大である。
執筆者:下平 和夫
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1664.6.-~1739.7.20
江戸中期の数学家。徳川氏の右筆直恒の三男。通称彦次郎,号は不休。兄の賢雄・賢明(かたあきら)とともに関孝和に弟子入りした。1683年(天和3)若くして「研幾(けんき)算法」を出版し,以後関の著書の解説書「発微算法演段諺解(げんかい)」,中国の数学書の解説書「算学啓蒙諺解大成」を刊行。また関や賢明とともに数学の集大成「大成算経」を著す。6~8代の将軍に仕え,徳川吉宗の信頼が厚く,天文・暦の顧問として活躍。「日本総図」の責任者。
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…1660年代は,遺題継承による数学の研究が盛んで,円周率の値もしだいに3.14が使われるようになったが,弧長を求める公式や,弓形の面積を求める公式はいろいろな近似公式があったが正しい公式は不明であった。18世紀になると,関孝和の弟子建部賢弘は,(arcsinx)2のマクローリン級数に相当する公式を見つけ,これを《綴術算経》(1722)の中で示した。同じころ建部は,指数1/2の二項級数を見つけ,これを利用して,二重数列の極限として,(arcsinx)2のマクローリン級数の各項の係数を決定した。…
…また統天暦に見える1年の長さが変化するという考え方を採り入れ,回帰年の長さが100年ごとに0.0002日不連続的に減少するとした歳実消長法を用いた。授時暦は江戸期の日本でさかんに研究され,建部賢弘の《授時暦諺解》が有名である。渋川春海は授時暦によって貞享暦(1685)を作り,麻田剛立は消長法を一般化させた。…
…この書は明代に失われ,清の中葉になってその朝鮮重刊本が発見されて,朱世傑は一躍有名となった。ところが日本では和算興隆期に朝鮮版がもたらされ,1658年(万治1)に和刻本が刊行され,ついで関孝和の高弟建部賢弘(たけべかたひろ)は《算学啓蒙諺解大成》を著し,和算の発達に大きな影響を与えた。朱世傑の第2の著《四元玉鑑》は清の中葉に発見され,若干の注解書が中国で刊行された。…
…建部賢弘が著した数学方法論の書。1722年(享保7)の序がある。…
…礒村も村松も江戸に塾をもち,多くの数学者を養成した。
[関孝和,建部賢弘]
17世紀の中ごろ,京都では中国の元時代に発明された天元術(算木を使う器具代数)が広まった。さらに《算学啓蒙》の覆刻が拍車をかけた。…
※「建部賢弘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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