東三条院(読み)ひがしさんじょういん

改訂新版 世界大百科事典 「東三条院」の意味・わかりやすい解説

東三条院 (ひがしさんじょういん)
生没年:961-1001(応和1-長保3)

藤原詮子円融天皇の女御。一条天皇の母。父は藤原兼家,母は藤原仲正の女時姫である。978年(天元1)8月入内して梅壺に候し,同年11月女御となる。980年懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を生むや,兼家は詮子が皇后に立てられるのを期待するが,関白藤原頼忠の女遵子が立后したため,しばらく詮子を宮中に帰すのを止めた。しかし986年(寛和2)懐仁親王が即位すると,7月5日その母儀として皇太后となり,女御から直接皇太后に昇る新例を開いた。991年(正暦2)9月初め疾病のため内裏を退出していた詮子が,同月16日出家したため,従来の身分を改めて,同日東三条院の院号を宣下された。女院(によいん)の初例である。996年(長徳2)3月病が重くなり院号を辞退するが聴許されず,1001年閏12月22日没した。女院は関白藤原道長の姉に当たり,道長の権勢確立を背後から支援したのは有名で,《愚管抄》に〈コノ女院ノ御ハカラヒノマヽニテ世ハアリケントナン申ツタエタリ〉とある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東三条院」の意味・わかりやすい解説

東三条院
ひがしさんじょういん

[生]応和2(962).京都
[没]長保3(1001).閏12.22. 京都
円融天皇の女御 (にょうご) 藤原詮子。太政大臣兼家の娘。母は藤原時姫。貞元3 (978) 年円融天皇の女御となり,天元3 (980) 年懐仁親王 (のち一条天皇) を産んだ。寛和2 (986) 年一条天皇が即位すると,皇太后の宣下を受けた。正暦2 (991) 年病んで落飾し,太上天皇に準じて東三条院と称した。これが女院号の初めである。陵墓は京都府宇治市の宇治陵

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東三条院」の解説

東三条院 ひがしさんじょういん

962-1002* 平安時代中期,円融天皇の女御。
応和2年生まれ。藤原兼家の娘。母は藤原時姫。藤原道長の姉。貞元(じょうげん)3年入内(じゅだい)。天元3年懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を生む。一条天皇が即位すると,皇太后となる。正暦(しょうりゃく)2年(991)出家。皇太后宮職(しき)を廃止し,太上天皇に準じて女院号の最初である東三条院をさずけられた。長保3年閏(うるう)12月22日死去。40歳。名は詮子(せんし)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東三条院」の意味・わかりやすい解説

東三条院
ひがしさんじょういん

藤原詮子

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世界大百科事典(旧版)内の東三条院の言及

【女院】より

…天皇の母や皇后,後宮,女御や内親王などで,女院号を宣下された者をいう。991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。…

※「東三条院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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