〈にょういん〉とも読む。天皇の母や皇后,後宮,女御や内親王などで,女院号を宣下された者をいう。991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。
院号宣下は,初例の東三条院の場合は出家による后位の停廃に基づき,第2例の太皇太后藤原彰子も1026年(万寿3)1月出家により上東門院の号を授けられたが,第3例の禎子内親王が陽明門院の女院号宣下を被ったのは1069年(延久1)2月で,すでに出家から二十数年を経ており,以後,出家と女院号宣下は必ずしも関係はなくなった。ただ以上の3例はいずれも天皇の生母で,后位にあるのを共通とする。ついで第4例の章子内親王が1074年(承保1)6月二条院の院号を授けられたときは,白河天皇の女御藤原賢子の立后を行おうとしたが,当時後宮には皇后,中宮,皇太后,太皇太后がいて后位に空席がなかったため,それぞれ后位の転上を行い,太皇太后の章子内親王が后位を退いて女院号を授けられたのである。かくして女院は後宮における地位の一つとみなされることになったが,二条院は天皇の生母ではなかったのが注意される。第5例の皇后媞子内親王が1093年(寛治7)1月に郁芳門院号を宣下されたのも,堀河天皇の女御篤子内親王の立后のためであった。なお郁芳門院は堀河天皇の准母であるが,従来の例とは異なり非妻后の皇后である。さらに鳥羽上皇の皇女暲子内親王も皇后に冊立されなかったが,准三宮(じゆさんぐう)の宣下をうけ,ついで二条天皇の准母となって1161年(応保1)12月八条院の院号を宣下され,また後白河天皇皇女覲子内親王も妻后でなかったが准后宣下を被り,1191年(建久2)6月宣陽門院号を下されている。なお宣陽門院は八条院とは違い,准母ではなかったが,准后を共通にしている。このように院号宣下の基準がしだいに緩められて,ついに足利義満の妻藤原康子が,皇親でも後宮でもないが准三宮の処遇をうけ,後小松天皇の准母を資格にして,1407年(応永14)3月北山院の院号宣下を被る異例を生じた。以上のごとく女院号宣下にはさまざまな形態を生じたが,資格の点から大別すると,天皇の母后(国母)で后位にある場合,国母でないが后位にある場合,国母でないが准后宣下を被っている内親王の場合,国母であるが出自が低いなどの理由で立后されなかったが,准后宣下を被っている場合の4形式に分けられる。
院号宣下の時期は,東三条院や上東門院のごとく出家に当たって宣下された例もあるが,以後は必ずしも特定されず,没日に〈御存生之儀〉をもって院号を下された京極院(亀山天皇皇后)や後京極院(後醍醐天皇皇后。2度院号宣下を被った人で,礼成門院ともいう)などの例,また没後院号を追贈された新崇賢門院(東山天皇の後宮)や新皇嘉門院(仁孝天皇の後宮)の例もある。
女院は多く宮城門にちなむ院号を宣下されたため門院とも称されるが,東三条院や上東門院などは殿邸名により,禎子内親王は御領所枇杷殿が陽明門大路に当たるため陽明門院と定められたが,以来,殿邸・御領所などにゆかりの宮城門号が用いられ,さらに藤原璋子(鳥羽天皇皇后)の待賢門院を初例として,殿邸とは無関係に門号が女院号に用いられた。かくして使用された門号は,宮城諸門12,内裏諸門28,八省院の諸門20,豊楽院の諸門12の72門号であるが,門号に限りもあるため旧号に新(後)字を付すことも行われ,門号にちなむ院号は86例を数える。したがって殿邸・御領所にちなむ院号は21である。
女院はもともと后位を退いたのち宣下を被るため,それまで付されていた后宮職をとめ,代わって太上天皇に准じて院司を置かれ,別当以下,判官代,主典代を任じて院中を処理させることとし,后位に昇らなかった女院にも院司が付された。また女院には院分受領の制にあずかる例(当初は国母の女院に限られた)もあり,鎌倉時代まで女院の分国も少なくない。さらに女院の中には,上東門院や高陽院のごとく,それぞれの父藤原道長や藤原忠実から摂関家領の一部を伝領したり,内親王を出自とする女院の中には,皇室領を伝領する例も少なくない。鳥羽上皇の皇女八条院は父上皇から譲渡された所領を基礎に,鳥羽の安楽寿院領や白河の歓喜光院領なども伝領し,記録にみえるだけで220余ヵ所の所領を有していた。また後白河上皇の建立になる六条長講堂の所領は,皇女の宣陽門院が伝領しており,長講堂領として有名である。なお女院庁の構成はほぼ上皇の院庁と同じであるが,所衆,武者所などはおかれなかった。
執筆者:米田 雄介
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天皇の母や皇后、後宮、皇女などで、女院号を宣下(せんげ)された者の称。「にょういん」とも読み、宮城の門号による命名が多かったので門院ともいう。991年(正暦2)一条(いちじょう)天皇の生母皇太后藤原詮子(せんし)が出家後、東三条院の号を授けられたのに始まり、ついで1026年(万寿3)後一条(ごいちじょう)天皇の生母太皇太后藤原彰子(しょうし)が上東門院(じょうとうもんいん)の号を宣下されて、門院号の例も開かれた。その後まもなく出家とは関係なく女院宣下が行われるようになり、さらに帝母でない三后、未婚の内親王、立后しない女御や後宮にも宣下され、ついには足利義満(あしかがよしみつ)の妻北山院(きたやまいん)のような特異な例や、没後追贈の例も生じ、1850年(嘉永3)宣下された孝明(こうめい)天皇の生母新待賢門院(しんたいけんもんいん)を最後として廃絶するまで、107人の女院を数えた。女院は本来太上(だいじょう)天皇に准ずる待遇を与えられたが、実際には時代により人によって大きな差異があり、また中世には莫大(ばくだい)な所領をもつ女院が相次いで現れ、皇室領の伝領に一役買った。
[橋本義彦]
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「にょういん」とも。門院とも。院号を宣賜され太上天皇に準じる待遇をうけた女性の総称。10世紀末の一条天皇生母の皇太后藤原詮子(せんし)(東三条院)から,19世紀半ばの孝明天皇生母の典侍藤原雅子(新待賢門院)までの107人。初期の詮子と彰子は出家時だが,以後は必ずしも関係なく,没時や没後の宣賜もあった。(1)天皇生母の三后(国母后宮),(2)天皇生母でない,または非妻の三后(非国母后宮),(3)天皇准母または后位にない准三宮の内親王など(非国母准后),(4)天皇生母で后位にない准三宮の女御(にょうご)・典侍(ないしのすけ)など(国母准后)に分類できる。院号は殿邸・御領所のほか宮城内諸門に由来し,門号に限りがある場合は旧号に新・後を付した。
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…〈にょういん〉とも読む。天皇の母や皇后,後宮,女御や内親王などで,女院号を宣下された者をいう。991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。…
…また院政時代は皇室領荘園が飛躍的に増大した時代である。寄進地系荘園の設立が本格化し,院政権力のもとに荘園の寄進が集中したためであるが,天皇・上皇・女院(によいん)等の御願寺建立の盛行がそれに拍車をかけ,御願寺領荘園として皇室の所領を拡大した。鳥羽上皇建立の安楽寿院領48ヵ所,後白河上皇建立の六条長講堂領90余ヵ所などは,その代表的なものである。…
※「女院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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