円融天皇(読み)エンユウテンノウ

デジタル大辞泉 「円融天皇」の意味・読み・例文・類語

えんゆう‐てんのう〔ヱンユウテンワウ〕【円融天皇】

[959~991]第64代天皇。名は守平もりひら村上天皇の第5皇子。在位969~984。

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精選版 日本国語大辞典 「円融天皇」の意味・読み・例文・類語

えんゆう‐てんのうヱンユウテンワウ【円融天皇】

  1. 第六四代天皇。村上天皇の第五皇子。名は守平。冷泉(れいぜい)天皇の同母弟。在位安和二年から永観二年(九六九‐九八四)。のち髪をおろして円融院に入る。天徳三~正暦二年(九五九‐九九一

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改訂新版 世界大百科事典 「円融天皇」の意味・わかりやすい解説

円融天皇 (えんゆうてんのう)
生没年:959-991(天徳3-正暦2)

第64代に数えられる天皇。在位969-984年。村上天皇の第5皇子。母は皇后安子(藤原師輔女)。諱(いみな)は守平(もりひら)。967年(康保4)兄為平親王を超えて冷泉天皇(ともに安子所生)の皇太弟となる。969年(安和2)即位摂政藤原実頼であったが翌年に死し,師輔の子伊尹(これただ)が摂政となる。972年(天禄3)元服,その年伊尹が死ぬと,弟の権中納言兼通を内大臣に抜擢,内覧の宣旨を下し,ついで関白とした。兼通は官位を同母弟の大納言兼家に超えられていたが,天皇は母安子の遺言を尊重したのである。兼通の死後は実頼の子頼忠が関白となる。花山天皇(冷泉皇子)に譲位後はしばしば遊楽を行い,政治にも発言し,また御願寺の円融寺(四円寺)を建てた。皇后媓子(兼通女)の死後,遵子(頼忠女)を立后させたが,ともに子はなく,兼家女の女御藤原詮子所生の懐仁親王が後の一条天皇となった。985年(寛和1)病により出家した。991年に没す。陵は後村上陵(京都市右京区)。
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百科事典マイペディア 「円融天皇」の意味・わかりやすい解説

円融天皇【えんゆうてんのう】

平安中期の天皇。在位969年−984年。父は村上天皇,母は藤原師輔の女安子。諱(いみな)は守平(もりひら)。969年即位,摂政藤原実頼。翌年師輔の子伊尹(これただ)が摂政となる。972年伊尹の弟権中納言兼通に内覧の宣旨を下し,次いで関白とした。兼通の死後,実頼の子頼忠が関白となる。譲位後は御願寺円融寺(現京都市右京区)を建立
→関連項目一条天皇

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朝日日本歴史人物事典 「円融天皇」の解説

円融天皇

没年:正暦2.2.12(991.3.1)
生年:天徳3.3.2(959.4.12)
平安中期の天皇。名は守平。村上天皇の第5皇子で母は藤原師輔の娘の皇后安子。9歳で皇太弟となり,安和の変(969)の半年後に病弱な冷泉天皇に代わって11歳で即位した。16年間の在位中は藤原兼通,兼家兄弟の政権争いに終始し,摂政,関白も実頼,伊尹,兼通,頼忠と目まぐるしく替わった。天皇を風雅の道へ駆りたてたのもそうしたことが一因であったろう。永観2(984)年,26歳で花山天皇に譲位し,翌年,病により出家(法号は金剛法)。円融の女御詮子(兼家の娘,道長の姉)は出家して東三条院(女院号の初例)と称し,政治に口入れしたことは有名だが,出家後の円融も花山・一条朝の政治に口を出した。一方,自由な上皇の身で遊び(和歌,漢詩,管絃)や,石清水社,石山寺,南都の諸寺巡礼などへの御幸を行った。御願寺である円融寺で33歳の生涯を閉じた。陵は京都市右京区宇多野の後村上陵。

(朧谷寿)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「円融天皇」の意味・わかりやすい解説

円融天皇
えんゆうてんのう
(959―991)

第64代天皇(在位969~984)。村上(むらかみ)天皇第5皇子。母は藤原師輔(もろすけ)の女(むすめ)、中宮安子(あんし)。諱(いみな)は守平。冷泉(れいぜい)天皇皇太弟となり、969年(安和2)11歳で即位。984年(永観2)位を花山(かざん)天皇に譲るまで在位15年。藤原実頼(さねより)、伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、頼忠(よりただ)らが摂関として執政。譲位後は出家し円融院に住し、金剛法と号した。上皇として院庁(いんのちょう)に多数の別当を補任(ぶにん)し、大規模な組織をつくり、しばしば大堰川(おおいがわ)に行幸するなどの御遊や仏事を行ったが、それのみに終わらず、宇多(うだ)源氏に親近・密着する一方で、兼家系の藤原氏と疎隔・対立し、皇室の家長として政治に関与するところがあった。死後、円融寺の北原に火葬し、その骨を後村上(ごむらかみ)陵に納めた。

[森田 悌]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「円融天皇」の解説

円融天皇 えんゆうてんのう

959-991 平安時代中期,第64代天皇。在位969-984。
天徳3年3月2日生まれ。村上天皇の第5皇子。母は藤原安子(あんし)。同母兄冷泉(れいぜい)天皇の譲位をうけ11歳で即位。藤原氏が政治を牛耳り,在位中は藤原氏内の政権争いに翻弄(ほんろう)された。26歳で譲位して仏門にはいり,円融寺に住した。正暦(しょうりゃく)2年2月12日死去。33歳。墓所は後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は守平(もりひら)。法名は金剛法。歌集に「円融院御集」。
【格言など】春日野に多くの年はつみつれど老いせぬ物は若菜なりけり(「拾遺和歌集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「円融天皇」の意味・わかりやすい解説

円融天皇
えんゆうてんのう

[生]天徳3(959).3.2. 京都
[没]正暦2(991).2.12. 京都
第 64代の天皇 (在位 969~984) 。名は守平,法諱金剛法。村上天皇第5皇子,母は皇后藤原安子で冷泉天皇の同母弟。安和2 (969) 年8月践祚。9月即位,在位 15年。永観2 (984) 年,位を花山天皇に譲り,太上天皇と称せられ,寛和1 (985) 年落飾,円融院に住し,風流文雅の生活をおくった。陵墓は京都市右京区宇多野福王子町の後村上陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「円融天皇」の解説

円融天皇
えんゆうてんのう

959.3.2~991.2.12

在位969.8.13~984.8.27

村上天皇の第5皇子。名は守平(もりひら)。母は藤原師輔の女安子。冷泉(れいぜい)天皇の同母弟。967年(康保4)皇太弟に立つ。2年後,冷泉から譲位されたとき皇太子には冷泉の長子(花山天皇)が立ったが,円融も藤原詮子(兼家の女)所生の1子(一条天皇)を得て,譲位に際し,これを花山天皇の皇太子に立てた。985年(寛和元)出家した。

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367日誕生日大事典 「円融天皇」の解説

円融天皇 (えんゆうてんのう)

生年月日:959年3月2日
平安時代中期の第64代の天皇
991年没

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