第64代に数えられる天皇。在位969-984年。村上天皇の第5皇子。母は皇后安子(藤原師輔女)。諱(いみな)は守平(もりひら)。967年(康保4)兄為平親王を超えて冷泉天皇(ともに安子所生)の皇太弟となる。969年(安和2)即位,摂政は藤原実頼であったが翌年に死し,師輔の子伊尹(これただ)が摂政となる。972年(天禄3)元服,その年伊尹が死ぬと,弟の権中納言兼通を内大臣に抜擢,内覧の宣旨を下し,ついで関白とした。兼通は官位を同母弟の大納言兼家に超えられていたが,天皇は母安子の遺言を尊重したのである。兼通の死後は実頼の子頼忠が関白となる。花山天皇(冷泉皇子)に譲位後はしばしば遊楽を行い,政治にも発言し,また御願寺の円融寺(四円寺)を建てた。皇后媓子(兼通女)の死後,遵子(頼忠女)を立后させたが,ともに子はなく,兼家女の女御藤原詮子所生の懐仁親王が後の一条天皇となった。985年(寛和1)病により出家した。991年に没す。陵は後村上陵(京都市右京区)。
執筆者:黒板 伸夫
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(朧谷寿)
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第64代天皇(在位969~984)。村上(むらかみ)天皇第5皇子。母は藤原師輔(もろすけ)の女(むすめ)、中宮安子(あんし)。諱(いみな)は守平。冷泉(れいぜい)天皇皇太弟となり、969年(安和2)11歳で即位。984年(永観2)位を花山(かざん)天皇に譲るまで在位15年。藤原実頼(さねより)、伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、頼忠(よりただ)らが摂関として執政。譲位後は出家し円融院に住し、金剛法と号した。上皇として院庁(いんのちょう)に多数の別当を補任(ぶにん)し、大規模な組織をつくり、しばしば大堰川(おおいがわ)に行幸するなどの御遊や仏事を行ったが、それのみに終わらず、宇多(うだ)源氏に親近・密着する一方で、兼家系の藤原氏と疎隔・対立し、皇室の家長として政治に関与するところがあった。死後、円融寺の北原に火葬し、その骨を後村上(ごむらかみ)陵に納めた。
[森田 悌]
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959.3.2~991.2.12
在位969.8.13~984.8.27
村上天皇の第5皇子。名は守平(もりひら)。母は藤原師輔の女安子。冷泉(れいぜい)天皇の同母弟。967年(康保4)皇太弟に立つ。2年後,冷泉から譲位されたとき皇太子には冷泉の長子(花山天皇)が立ったが,円融も藤原詮子(兼家の女)所生の1子(一条天皇)を得て,譲位に際し,これを花山天皇の皇太子に立てた。985年(寛和元)出家した。
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