松坂城下(読み)まつさかじようか

日本歴史地名大系 「松坂城下」の解説

松坂城下
まつさかじようか

蒲生氏郷豊臣秀吉の命を奉じ、近江国蒲生がもう日野ひのから三渡みわたり川河口のまつしまへ移転してきたのは天正一二年(一五八四)のことである。この頃の松ヶ島は、近世の検地帳類に記された小字名から、整備された都市であったことが知られる。しかし秀吉政権の確立によって、軍事戦略上の一拠点であった松ヶ島の存在意義は失われ、新時代に応じ、領国全体と有機的な連関をもつ都市の建設が必要となった。蒲生氏郷は天正一六年四五百よいほ森に新城ならびに新城下町を建設し、城下は松ヶ島から松坂に移った。同年一一月晦日付で一二ヵ条の町中掟を公布した。

当町は「十楽」を理由に諸座諸役を(油を除き)免除されており(第一条)、押買・押売・宿々押借り(第二条)、諠嘩口論(第三条)は固く禁止されていた。天下一同の徳政も適用されず(第四条)、町中への理不尽の催促も許されていなかった(第八条)。町中でみだりに抜刀した者を町人として取籠め注進するよう命じられている(第一二条)のは、一定の検断行為が町人中に認められていたことを示すが、一方で殿との町での見せ棚商売を停止するなど(第五条)、都市の身分制的構造を守ることが命じられていた。第六条の質物・蔵方に関する規定は詳細で、松坂町が蔵方の一大集住地として当地域の経済関係の中枢部に位置付けられたことがわかる。松ヶ島は、第一〇条に「於松ケ嶋、百姓之外、町人相残り居住之義一切令停止事」とあるように、全町人の松坂移住が強制され、土地に刻まれた字名のみを残して、その町場は完全に消滅した。

天正一八年に蒲生氏郷は会津あいづに転封を命ぜられ、翌一九年、豊臣秀次の臣服部采女正一忠が松坂城主に封ぜられた。彼は聚楽第じゆらくだいに在勤したため、家臣の石黒毛右衛門が松坂で城主を代行したが、文禄四年(一五九五)秀次事件にかかわって一忠は上杉景勝に預けられ切腹した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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