日本歴史地名大系 「松寺村」の解説 松寺村まつてらむら 石川県:金沢市旧河北郡地区松寺村[現在地名]金沢市松寺町(まつでらまち)金沢平野北部、浅野川中流右岸に位置。中世は倉月(くらつき)庄の内。暦応四年(一三四一)八月七日の摂津親秀譲状(美吉文書)に、女子伊呂分として「加賀国倉月庄内松寺廿町方」を譲り、伊呂の死後は阿古丸に譲与するとあり、また養子大隅五郎親泰に「松寺村十六町方内参分壱」を譲与するとみえ、同月一二日足利直義が外題安堵の判を加えている。康暦二年(一三八〇)六月一日幕府は「倉月庄内松寺・赤浜両村」を山城宝幢(ほうどう)寺(現京都市右京区鹿王院)に寄進しており(「足利義満寄進状案」鹿王院文書、以下同文書は省略)、永徳二年(一三八二)にも足利義満が同寺領として安堵している(同年二月一七日足利義満安堵状)。 松寺村まつでらむら 三重県:四日市市北部地区松寺村[現在地名]四日市市松寺一―三丁目・川北(かわきた)一丁目朝明(あさけ)川の南、川北(かわきた)村の東、東海道に沿ってある。対岸は柿(かき)村(現三重郡朝日町)がある。江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば戸数三二、人口一六〇。寺院は蓮証(れんしよう)寺(浄土真宗本願寺派)。鎮守は神明宮一社。朝明川の堤防三四〇間の普請場があり、この分に対する人足は「丸扶持」であったが、二一二間分は「村普請」となっている。また村に対して一〇人の人足の負担が課せられた。文久三年(一八六三)の南組家数人別惣目録(三重郡川越町大塚家蔵)によれば戸数四四(うち本家二七・無高一七)、寺一。 松寺村まつでらむら 滋賀県:彦根市旧犬上郡地区松寺村[現在地名]彦根市西葛籠町(にしつづらまち)極楽寺(ごくらくじ)村の東に位置し、東は中山道を挟んで葛籠町村。葛籠町村に対し西葛籠町村ともいい(旧高旧領取調帳)、近代には西葛籠町村を正称とした。慶長高辻帳に村名がみえ高二四六石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数三二九、うち寺社方四。宿村大概帳に「男女共葛籠細工をいたす」とある。「江左三郡録」は当地の若宮八幡社は足利義詮が当地に幽栖中に生れた若君を祭神とし、葛籠細工を業とする人たちの氏神だと記す。村の産土神は鹿島大明神(木間攫)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by