松木淡々(読み)まつき・たんたん

朝日日本歴史人物事典 「松木淡々」の解説

松木淡々

没年:宝暦11.11.2(1761.11.27)
生年:延宝2(1674)
江戸中期の俳人。幼名熊之助,のちに伝七。初号因角,のち渭北。別号半時庵。大坂西横堀阿波屋の子として生まれる。初め椎本才麿門。元禄13(1700)年江戸に出て立羽不角に師事し,やがて榎本其角を師とするに至る。宝永1(1704)年奥州に行脚,『安達太郎根』を編み,同3年3月に万句興行をして判者となる。翌年其角が没してすぐ淡々と改号。同5年『其角一周忌』を編み,秋に京都へ移住した。正徳5(1715)年『六芸』を編み,夏には東下,その折の俳筵の記録『十友館』を帰京後刊行し,俳活動は活発化する。翌享保1(1716)年,洛東鷲峰山の中腹に半時庵を営み,翌2年に『にはくなぶり』の恋百韻を独吟し,京俳壇における地位を確立した。 神沢杜口随筆『翁草』が,「そもそも洛の俳諧中興せしも淡々,邪にせしも淡々なり」と評するように,連句において付合を無視して一句のたくみをもっぱらにする「一句立」を導入,世に迎えられた。同11年の『春秋関』を始めとする高点付句集は,前句はすべて省略され,付句のみを収めたものである。天明期に三宅嘯山一派が批判するまで,淡々らの高点付句集は大衆の支持を得ることになる。同18年,江戸に下って,五色墨連中と交流し『紀行俳談二十歌仙』を編み,翌年,故郷大坂に門戸を張り,その門流は代々八千坊(房)を名乗り,「浪花ぶり」と称された。享保の上方俳壇に君臨した淡々は,経営の才があり,生活も豪奢を極め,性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は,晦渋で,高踏を装って人を弄するところがあり,詩としての価値は認められない。代表句は「口癖のよし野も春の行衛哉」など。<参考文献>潁原退蔵「享保俳諧の三中心」(『潁原退蔵著作集』4巻)

(加藤定彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松木淡々」の解説

松木淡々 まつき-たんたん

1674-1761 江戸時代中期の俳人。
延宝2年生まれ。生家は大坂西横堀の阿波屋。江戸にでて立羽不角(たてば-ふかく),榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。のち京都,大坂で半時庵流という俳風で人気をあつめた。伝授書を乱発して豪華な生活をおくったという。宝暦11年11月2日死去。88歳。通称は伝七。別号に渭北,因角,曲淵,三楊,半時庵など。著作に「淡々発句集」「淡々文集」など。
【格言など】色酒財を人たる者慎むべし。何事も此三つより発(いず)(「奇説つれづれ草紙」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松木淡々」の意味・わかりやすい解説

松木淡々
まつきたんたん

[生]延宝2(1674).大坂
[没]宝暦11(1761).11.2. 大坂
江戸時代中期の俳人。別号,呂国,渭北,半時庵など。芭蕉,其角,不角に学び,一時,江戸,京都,堺にも住んだ。人物,作風とも通俗的で勢力を張った。編著『安達太郎根 (あだたらね) 』 (1703) ,『淡々文集』 (42) など多数。

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世界大百科事典(旧版)内の松木淡々の言及

【淡々】より

…江戸中期の俳人。本姓は曲淵。ふだんは松木姓を名のる。大坂の人。初号は因角。1700年(元禄13)冬江戸に移り,渭北と改号,不角と其角に従った。彼自身は,江戸で芭蕉にまみえ,呂国の号を得たと述べるが,信じるべきでない。04年(宝永1)に芭蕉のあとを慕って奥州に行脚し,《安達太郎根(あだたらね)》を編んだ。07年,其角没後淡々と改号,翌年秋に京に移住した。当初,京での俳諧活動はほとんどなく,江戸に出た機会に旧友と俳交を楽しむ程度であったが,15年(正徳5)《十友館》《六芸》を編んだころから京俳壇を地盤として熱心に活動を開始,16年(享保1)に鷲峰山の中腹に半時庵を結び,翌年《にはくなふり》を世に問うた。…

※「松木淡々」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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