朝日日本歴史人物事典 「松木淡々」の解説
松木淡々
生年:延宝2(1674)
江戸中期の俳人。幼名熊之助,のちに伝七。初号因角,のち渭北。別号半時庵。大坂西横堀阿波屋の子として生まれる。初め椎本才麿門。元禄13(1700)年江戸に出て立羽不角に師事し,やがて榎本其角を師とするに至る。宝永1(1704)年奥州に行脚,『安達太郎根』を編み,同3年3月に万句興行をして判者となる。翌年に其角が没してすぐ淡々と改号。同5年『其角一周忌』を編み,秋に京都へ移住した。正徳5(1715)年『六芸』を編み,夏には東下,その折の俳筵の記録『十友館』を帰京後刊行し,俳活動は活発化する。翌享保1(1716)年,洛東鷲峰山の中腹に半時庵を営み,翌2年に『にはくなぶり』の恋百韻を独吟し,京俳壇における地位を確立した。 神沢杜口の随筆『翁草』が,「そもそも洛の俳諧を中興せしも淡々,邪にせしも淡々なり」と評するように,連句において付合を無視して一句のたくみをもっぱらにする「一句立」を導入,世に迎えられた。同11年の『春秋関』を始めとする高点付句集は,前句はすべて省略され,付句のみを収めたものである。天明期に三宅嘯山の一派が批判するまで,淡々らの高点付句集は大衆の支持を得ることになる。同18年,江戸に下って,五色墨連中と交流し『紀行俳談二十歌仙』を編み,翌年,故郷大坂に門戸を張り,その門流は代々八千坊(房)を名乗り,「浪花ぶり」と称された。享保の上方俳壇に君臨した淡々は,経営の才があり,生活も豪奢を極め,性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は,晦渋で,高踏を装って人を弄するところがあり,詩としての価値は認められない。代表句は「口癖のよし野も春の行衛哉」など。<参考文献>潁原退蔵「享保俳諧の三中心」(『潁原退蔵著作集』4巻)
(加藤定彦)
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