宗因(読み)ソウイン

デジタル大辞泉 「宗因」の意味・読み・例文・類語

そういん【宗因】

西山宗因にしやまそういん

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精選版 日本国語大辞典 「宗因」の意味・読み・例文・類語

そういん【宗因】

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改訂新版 世界大百科事典 「宗因」の意味・わかりやすい解説

宗因 (そういん)
生没年:1605-82(慶長10-天和2)

江戸前期の連歌師俳人。姓は西山,通称は次郎作,名は豊一(とよかず)。宗因はおもに連歌の号で,俳号は一幽,西翁,梅翁,西梅花翁,野梅子,長松斎,忘吾斎等。庵号は向栄庵,有芳庵。肥後国八代(やつしろ)(現,熊本県八代市)の人。幼年時代から熊本釈将寺の僧豪信僧都に和歌を学び,1619年(元和5)15歳のころ八代城主加藤正方に仕えてからは,その感化で連歌をもたしなんだ。32年(寛永9)主家の改易によって浪人となり,主君の隠棲に従って上洛。その後,里村南家2代昌琢(しようたく)に師事して連歌を修業し,47年(正保4)43歳のとき大坂天満宮の連歌所宗匠に就任した。里村南家には重頼,徳元ら俳諧師が座を連ねており,宗因もその影響で俳諧に興味を抱き,53年(承応2)の《津山紀行》に初めて俳諧の発句を披露,万治期(1658-61)には重頼と携えて〈俳諧の会合斜めならずまねかれて京・大坂へも打つれ〉(《時勢粧(いまようすがた)》)て行くうちに,60年(万治3)には梅盛編《俳仙三十六人》中に名を挙げられ,65年(寛文5)には《大坂俳諧雪千句》で10人の点者(てんじや)に加えられるまでになった。70年(寛文10)法雲禅師のもとで出家,連歌所宗匠の地位を一子宗春に譲ってからは,いよいよ俳諧に熱中した。彼の俳風は,万治期からの独吟百韻を集めた《宗因千句》に早くも顕在化するごとく,和歌・謡曲などの文句の奇抜なパロディ,句調の軽妙さ,付合(つけあい)の飛躍的展開などにおいて,おのずから貞門古風へのアンチテーゼをなしたため,貞門からは〈軽口(かるくち)〉〈守武(もりたけ)流〉など異端者呼ばわりされ,《西山宗因蚊柱百句(かばしらのひやつく)》(1674)に対して論難書《しぶうちわ》(1674)が出されたりした一方,貞門風にあきたらず新風を模索していた大坂の西鶴・惟中,京の高政,江戸の松意・桃青(芭蕉)など気鋭の新人たちから熱狂的支持を受け,談林派の盟主にまつりあげられた。《西山宗因釈教俳諧》(1674),《宗因五百句》(1674),《宗因七百韻》(1677)など,宗因の名を冠した俳書が続々刊行されたのは,その声望の表れである。

 だが《俳諧綾巻(あやのまき)》(1680)の著者が,いみじくも〈誹諧はたゞ当座のたはぶれ折にふれての云捨(いいずて)なれば,歌・連歌の格はしりながら態(わざ)とかうしらるゝ一流也〉と指摘したとおり,宗因自身は俳諧を連歌の余技としてしか心得ていなかったため,1680年代に起こった疎句体俳諧の急激な流行に対処できず,〈連歌おもしろく成り申し候。誹は当風成るまじくおぼえ候〉(1681書簡)と述べて,連歌の世界へ回帰していった。宗因の俳諧史上の存在意義は,〈上に宗因なくむば,我々がはいかい今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也〉(《去来抄》)という芭蕉の評言に尽きる。天和2年3月28日没,享年78。法名は実省院円斎宗因居士。追善集に秋風編《打曇砥(うちぐもりと)》(1682),西鶴編《精進膾(しようじんなます)》(1683)がある。〈里人の渡り候ふか橋の霜〉(《境海草》)。
談林俳諧
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗因」の意味・わかりやすい解説

宗因
そういん
(1605―1682)

江戸前期の連歌(れんが)師、俳人。姓は西山。俗名は次郎作、諱(いみな)は豊一(とよかず)。宗因は主として連歌の号で、俳諧(はいかい)では一幽(いちゆう)、西翁(さいおう)、西幽子(さいゆうし)、西梅花翁(にしばいかおう)、梅翁(ばいおう)などと号した。肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)の生まれ。幼時から天台宗釈将寺の僧豪信僧都(そうず)に和歌などを学んだが、1619年(元和5)15歳のとき、連歌の好士八代城主加藤正方(まさかた)に仕えたのをきっかけに、連歌道にも志し、17歳から26歳までの9年間、京の里村昌琢(さとむらしょうたく)門に長期留学して連歌を修行した。1632年(寛永9)主家改易のため浪々の身となり、翌年上洛(じょうらく)、隠棲(いんせい)中の旧主に従うこと15年に及んだが、旧主が京を追われてのち、1647年(正保4)43歳で大坂天満宮連歌所宗匠に着任、月次(つきなみ)連歌を再興するなど功を積み、諸国に名声を馳(は)せた。しかし、相次ぐ身辺の不幸に深く無常を感じ、1670年(寛文10)66歳のとき、豊前小倉(ぶぜんこくら)(福岡県北九州市)の広寿山福聚(ふくじゅ)寺の法雲禅師のもとで出家、連歌所宗匠の座を一子宗春(そうしゅん)に譲り、もっぱら俳諧に遊ぶこととなった。

 連歌壇は、それに付属する形で俳諧の座を営んでおり、里村家に学んだ宗因も1647年(正保4)ごろから俳諧を始め、50年代のすえには同門の重頼(しげより)とともにかなり俳名を知られるに至ったらしい。当時の作風はまだ貞門風を脱しきれず平凡であるが、以後急激に新しみを加え、反貞門分子から熱烈な歓迎を受けて、1670年代には、大坂の西鶴(さいかく)、京の高政(たかまさ)、江戸の桃青(とうせい)(芭蕉(ばしょう))・松意(しょうい)ら多くの門人を擁する、いわゆる談林(だんりん)派の盟主となった。その俳風は、格に縛られない自由さ、素材の卑近さ、着想の奇抜さなどを特徴とするが、門人らに比べると連歌師の素養に引かれてか、概して穏健である。俳諧史上の存在意義は「上に宗因なくんば我々が俳諧今以(もっ)て貞徳(ていとく)の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此道(このみち)の中興開山なり」(去来抄)という芭蕉の評に尽きる。天和(てんな)2年3月28日没、78歳。

 里人のわたり候ふか橋の霜

[乾 裕幸]


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百科事典マイペディア 「宗因」の意味・わかりやすい解説

宗因【そういん】

江戸前期の連歌師,俳人。姓は西山,名は豊一(とよかず)。宗因は主に連歌の号で,俳号は西翁,梅翁,一幽等。肥後八代(やつしろ)の加藤家に仕えて連歌の手ほどきを受け,里村昌琢に師事して連歌を修業した。1647年,主家改易で京都に出ると,大坂天満宮の連歌所宗匠となり,長く中絶していた月次(つきなみ)連歌を再興した。同時に俳壇にも積極的に参加し,のち貞門に対する俳諧(はいかい)の新風を提唱,西鶴芭蕉,高政らに支持され,談林派の盟主とされる。作品に《西翁十百韻(とっぴゃくいん)》《宗因五百韻》等。
→関連項目鬼貫重頼素堂

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗因」の解説

宗因
そういん

1605~82.3.28

江戸前期の俳人・連歌師。加藤清正の家臣西山次郎左衛門の子。本名西山豊一(とよかず)。通称次郎作。俳号は一幽,宗因は連歌名。肥後国熊本生れ。15歳頃から肥後国八代(やつしろ)城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り,京都に遊学。昌琢(しょうたく)について本格的に連歌を学んだが,1632年(寛永9)主家の改易で牢人となる。47年(正保4)大坂天満宮連歌所の宗匠となり,全国に多くの門人をもつ。その一方俳諧活動も行い,延宝頃に談林俳諧の中心人物とされた。はじめ関西を中心に流行し,しだいに全国に波及,芭蕉の蕉風俳諧をうむ基盤を作ったが,晩年は連歌に戻った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗因」の解説

宗因 そういん

西山宗因(にしやま-そういん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗因」の意味・わかりやすい解説

宗因
そういん

西山宗因」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の宗因の言及

【虚実】より

…この虚実を相対的にとらえる虚実相兼論に対し,荘子哲学を背景にして,〈虚〉を相対的次元を超えた絶対的根拠として虚実論を展開する者もあった。談林俳諧の総帥西山宗因の〈抑(そもそも)俳諧の道,虚を先として実を後とす。和歌の寓言,連歌の狂言也〉(《阿蘭陀丸二番船》)とか,その門下の岡西惟中の〈俳諧とはなんぞ。…

【談林俳諧】より

…伝統的な貞門俳諧に反抗して起こり,1670年代(延宝期)を中心に流行,蕉風俳諧の台頭とともに急速に衰えた過渡期の俳諧である。貞門のなまぬるい俳風や堅苦しい作法に不満をもつ人びとが,連歌の余技として解放的・遊戯的な俳諧を楽しんでいた,大坂天満宮の連歌所宗匠西山宗因を盟主とし,一派を成したもので,宗因流,またその俳号から梅翁(ばいおう)流ともいう。談林とはもと僧侶の学寮をいい,初めに江戸の松意(しようい)一派がそれを名のったが,のちに宗因をいただく諸派の俳諧の総称となった。…

※「宗因」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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