フランス18世紀の思想家・文学者ディドロの対話体の小説(1761-62執筆,65,72,73以降改訂)。ある春の日の午後(推定によれば,1761年4月某日),コーヒー店ラ・レジャンスで〈私〉(ディドロ)は,以前からの知合いである〈彼〉(大音楽家ジャン・フィリップ・ラモーの甥であるヘボ音楽師ジャン・フランソア),すなわち〈私たちの教育や慣習や作法が導き入れたあの退屈な単調さをぶちこわす〉奇人たちの一人から,たまたま声をかけられる。この瞬間から,5時半の晩禱の鐘がなり,〈彼〉が席を立って行くまでの数時間に,2人の間で交わされた対話と,この対話をめぐる作者ディドロ自身のト書き的な説明・意見などが,この作品の内容をなしている。作者ディドロは,〈彼〉と〈私〉のそれぞれが主張し合って譲らない二つの考え方の対決のなかに,音楽論,時代風俗への風刺,身ぶり描写などの諸要素と渾然一体となって,〈フランス文学のまっただなかに爆弾のように炸裂している〉(ゲーテ)のである。
執筆者:中川 久定
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フランスの啓蒙(けいもう)思想家ディドロの対話体の小説で、1762~72年執筆。起稿は、60年に上演されたパリソCharles Palissot de Montenoy(1730―1814)の喜劇『哲学者たち』Les Philosophesがきっかけとなったと考えられるが、作品に実在の同時代人への言及が多いため、ディドロの生前には刊行されなかった。この傑作が初めて日の目をみるのは、ドイツの文豪ゲーテが写本の一つに基づいて1805年にドイツ語訳してからである。ディドロの肉筆原稿が発見されたのは、実に1891年のことだった。
作品は、大作曲家ジャン・フィリップ・ラモーの甥でうだつのあがらぬ音楽家「彼」と、ディドロとおぼしき哲学者の「私」とが交わす会話がおもな内容の風変わりな小説である。「彼」は身ぶりを交えて、天才と凡才の問題、金満家の周辺に集う寄食者の生態、イタリア・オペラへの礼賛、悪の問題などを熱っぽく語る。これを迎え撃つ「私」の建設的回答も動揺しがちにならざるをえない。ヘーゲルが、両者の対話のうちに、誠実な意識と堕落した意識の対立をみたことは有名である。
[市川慎一]
『本田喜代治・平岡昇訳『ラモーの甥』(岩波文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ついで,18世紀フランス演劇の最高傑作に数えられる《この男,善人なのやら悪人なのやら》(1770‐84執筆,生前未刊)を書き,また俳優の演技は感動に頼るべきではなく,知性によって統御されるべきであるとする革新的理論を《俳優に関する逆説》(1769‐78)のなかで主張した。小説の分野では,《修道女》(1760‐82執筆,生前未刊),《ラモーの甥》(1761‐73執筆,生前未刊),《運命論者ジャックとその主人》(1772‐73執筆,74改訂,生前未刊)が生みだされる。そこでは,社会の周縁に位置する人物(修道院制度に反抗して脱走する女性,社会の脱落者ラモーの甥,召使ジャック)によって,既成の秩序は疑問のうちに投げ込まれ,転倒され,その混乱のなかからまったく新しい文学的宇宙が誕生する。…
…未完)が,ラモー生誕300年の1983年に新ラモー全集がフランスで企画された。 なおディドロの小説《ラモーの甥》のモデルは,彼の弟でオルガン奏者のクロードClaude R.(1690‐1761)の息子で音楽家のジャン・フランソアJean‐François(1716‐?)である。ラモーの3人の子はだれも音楽家にはならなかった。…
※「ラモーの甥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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