上田秋成
うえだあきなり
(1734―1809)
江戸中期の国学者、歌人、小説家。本名東作。秋成はその字(あざな)。手の障害にちなんだ無腸(むちょう)(蟹(かに)の意)や余斎の別号で知られた。大阪・曽根崎(そねざき)で出生。実母は大和(やまと)国樋野(ひの)村(奈良県御所(ごせ)市)の旧家松尾家の娘ヲサキ。実父については、小堀遠州直系の旗本小堀政報(こぼりまさつぐ)であったらしいとの説がある。4歳のとき実母の手を離れ、大阪・堂島永来(えら)町の紙油商嶋屋(しまや)上田茂助に養われた。生来虚弱でときどき驚癇(きょうかん)(ひきつけ)を発したというが、武士の出の実直な養父と、養母の没後(5歳)迎えられた第二の義母の慈愛のもとで愛育された。5歳のとき悪性の痘瘡(とうそう)にかかり九死に一生を得たものの、右の中指と左の第2指が短折する不幸を刻印された。このとき加島稲荷(かしまいなり)(香具波志(かぐはし)神社)の加護があったといわれ、生涯神恩を感謝している。青年時は遊蕩(ゆうとう)もあったなかで町人学校懐徳堂に通学、学問の素地を与えられたらしい。また20歳前後から俳諧(はいかい)に親しみ、高井几圭(たかいきけい)(1687―1761)について指導を受けるとともに、漁焉(ぞえん)の号で活躍。このころ下冷泉(しもれいぜい)家(藤原為栄(ふじわらためよし))について和歌の添削を受け、国語学者富士谷成章(ふじたになりあきら)と交友を結び、また唐音学者勝部青魚(かつべせいぎょ)(1712―1788)からは中国小説に対する眼(め)を開かれた。27歳の年、植山たまと結婚、1761年養父を失ったのちは、遊びが高じて浮世草子に筆を染め、33歳の年、八文字屋(はちもんじや)風の風俗小説『諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)』を和訳太郎の名で刊行、1767年には『世間妾形気(てかけかたぎ)』を出版、気質物(かたぎもの)末期の佳作と評される。すでに小島重家に勧められて契沖(けいちゅう)の書に接していた秋成は、33、34歳のころ賀茂真淵(かもまぶち)の高弟加藤宇万伎(かとううまき)に師事、新国学がもつ主題性に眼を開かれるなど決定的な影響を受け、宇万伎没後は独学で学問に務めた。
38歳の年、大火にあって破産、医者としてたつことを決意。儒医都賀庭鐘(つがていしょう)の門に入って手ほどきを受けたのち、加島村(大阪市淀川(よどがわ)区)に仮寓(かぐう)、修業に励むかたわら、古典の研究に打ち込み、この時期に和学研究の基礎がつくられた。1776年(安永5)、大坂へ出て医業を開業するとともに、怪異小説の傑作『雨月(うげつ)物語』を剪枝崎人(せんしきじん)の名で刊行。1778年には、寓言論として知られる独自な『源氏物語』の評論『ぬば玉の巻』を書いた。この時期、国学に親しむとともに一家の見識を培い、50歳を過ぎたころ、本居宣長(もとおりのりなが)との間に、古代の音韻および日の神(天照大神(あまてらすおおみかみ))の解釈をめぐって論争があった(のちに『呵刈葭(あしかりよし)』として編集)。宣長の古道論に対する秋成の批判は、宣長の「信」を衝(つ)いたものとして評価される。54歳の年、病のため、大坂の北、淡路庄(あわじのじょう)村(東淀川区)に退隠、以後定業につかず、文筆に従い学問に遊ぶ文人としての生き方に徹することになった。家業にいそしむ一民としての生き方を信条としながら芸文の遊びに走る自己を、秋成は狂蕩(きょうとう)の語でよんでいる。
60歳、わずかの蓄えをもって京都へ移ったあと、たびたび居を移しながら、村瀬栲亭(むらせこうてい)、小沢蘆庵(おざわろあん)、伴蒿蹊(ばんこうけい)らと交流、64歳の年、妻瑚璉尼(これんに)(たま、58歳)を失って孤独の身となった。57歳で左眼の明(めい)を失い、さらに右眼も失明したが、谷川良順の治療を得て左明を回復。この時期、大いに学問の研鑽(けんさん)に努め、『霊語通』『冠辞続貂(かむりごとつぎお)』『楢の杣(ならのそま)』『金砂(こがねいさご)』『よしやあしや』『安々言(やすみごと)』『遠駝延五登(おだえごと)』など、国語学、古典の注釈、史論にわたる書を著し、『落久保(おちくぼ)物語』や『大和(やまと)物語』を校刊した。最晩年の生活は悲惨で、厚情を寄せた知友の間を転々、随筆『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』に赤裸な自我を示すとともに、生涯のすべてを創作集『春雨(はるさめ)物語』に結実させ、文化(ぶんか)6年6月27日、京都の羽倉信美(はくらのぶよし)(1750―1828)邸で76年の生涯を閉じた。墓は南禅寺山内西福寺の内庭に現存する。
煎茶(せんちゃ)を好んで『清風瑣言(せいふうさげん)』の著があり、歌は万葉に関心を示したが、こだわらない自由な作風をみせ、歌文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』や『毎月集』に収められている。ほかに戯文の風刺小説『書初機嫌海(かきぞめきげんかい)』『癇癖談(くせものがたり)』、書簡文集『文反古(ふみほうぐ)』、随筆『茶瘕酔言(ちゃかすいげん)』、切れ字を論じた『也哉抄(やかなしょう)』、句集『俳調義論』などがある。秋成は、国学者としてよりは、井原西鶴(いはらさいかく)、曲亭馬琴(きょくていばきん)と並んで近世を代表する小説家として評価され、とくに『雨月物語』は、日本の小説史上、初めて短編の様式を完成させた作品として高く評価されている(石川淳(いしかわじゅん))。佐藤春夫、三島由紀夫など、影響を受けた近代の作家も少なくない。
[中村博保 2016年4月18日]
『『上田秋成全集』2冊(1917、1918/復刊・1974・国書刊行会)』▽『藤井紫影編『秋成遺文』(1919・修文館/復刊・1974・国書刊行会)』▽『中村幸彦校注『日本古典文学大系56 上田秋成集』(1959・岩波書店)』▽『高田衛著『上田秋成年譜考説』(1964・明善堂)』▽『浅野三平著『秋成全歌集とその研究』(1969・桜楓社/増訂版・2007・おうふう)』▽『高田衛著『鑑賞日本の古典18 秋成集』(1981・尚学図書)』▽『中村博保著『上田秋成の研究』(1999・ぺりかん社)』
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上田秋成
没年:文化6.6.27(1809.8.8)
生年:享保19.6.25(1734.7.25)
江戸中期の歌人,国学者,読本作家。幼名仙次郎,通称東作,別号無腸,余斎,漁焉,和訳太郎,鶉居,秋翁,休西など。父は旗本小堀左門政報という説があるが不詳,母は大和国樋野村出身でのち大坂に出た松尾九兵衛富喜の娘ヲサキである。大坂の生まれ。4歳のとき,堂島の紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となる。翌年,痘瘡にかかり生死をさまよい,右手中指と左手人さし指が短くなったが一命を取りとめた。このとき養父は加島稲荷に助命を乞い,秋成に68歳の寿命を与える夢を授かったという。この年養母が没した。青年時代は「浮浪子」的生活を送り,俳諧に手を染めたが,懐徳堂に学んだ形跡もある。27歳で植山たま(1790年剃髪して瑚〓尼と名乗る)と結婚,翌年養父が死亡して嶋屋を継いだが商売には向かなかったようである。明和3(1766)年,浮世草子『諸道聴耳世間狙』を,4年,『世間妾形気』を刊行,鋭い人間観察に文才をみせたが,5年,知的興趣に満ちた読本『雨月物語』を脱稿(1776年刊)し,怪談の形式で異界を描きながら,人間の本性を見事に描破した。国学の師加藤宇万伎に出会ったのも明和年間である。 明和8年,火事で嶋屋が類焼,医学を修めることを思い立ち,数年間加島村に移って勉強,ここでは古典の講義も行った。安永5(1776)年,大坂尼崎で医を開業。天明6(1786),7年には本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行い,宣長の皇国主義を批判した。この論争は宣長によって『呵刈葭』としてまとめられた。このころ風刺小説の『書初機嫌海』(1787)を書いている。天明7年4月に大坂近郊の淡路庄村に隠遁した。寛政2(1790)年,左眼失明。5年,60歳のとき京都に移って以来,住居を転々とし,呉春,村瀬栲亭,小沢蘆庵,伴蒿蹊らと交わり,ときどき下坂して木村蒹葭堂を訪れた。9年,妻が死に,翌10年いったん両眼失明状態になるが,「神医」谷川氏兄弟に治療を受けて左眼の明を得た。こういう経験から自己を顧みて「不遇」を意識し,これを「命禄」として受け止めるという人生観を得たようである。正親町三条公則に『万葉集』などを講義したり,妙法院宮真仁法親王と交わったのもこのころであった。文化年間(1804~18)創作活動はますます盛んとなり,歌文集の『藤簍冊子』(1805,06)を刊行。最晩年には推敲を重ねた短編小説集の『春雨物語』(1808年成稿)を執筆し,枯淡で自在な文章を駆使して,巧みに自らの人間観,歴史観を織りまぜてみせた。また煎茶を愛し,『清風瑣言』(1794)を著し,忌憚のない口語体で友人を批評した辛口の随筆『胆大小心録』を残した。しかし書くことの虚業を痛切に自覚し,文化4年には草稿類を庵の井戸に捨てている。同6年,羽倉信美邸に移り,そこで没した。著作は他に談義本風の『癇癖談』(1793年執筆),『伊勢物語』論の『よしやあしや』(1793),万葉集評釈書『金砂』(1803年執筆),書簡文集『文反古』(1808)など多数ある。<参考文献>高田衛『上田秋成年譜考説』
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上田秋成
うえだあきなり
[生]享保19(1734).6.25. 大坂
[没]文化6(1809).6.27. 京都
江戸時代中期~後期の国学者,浮世草子・読本作者。通称,東作 (藤作) 。俳号,漁焉 (ぎょえん) ,無腸。浮世草子の筆名,和訳 (わやく) 太郎。読本などの筆名,剪枝畸人 (せんしきじん) 。そのほか余斎,三余斎,鶉居,鶉廼家など。実父母については諸説があるが,未詳で,4歳で堂島の紙・油商上田茂助の養子となり,5歳のとき痘瘡をわずらい,指が不自由になった。剪枝畸人の名はこれに由来する。初め俳諧を学び,30歳前後から和歌,国学に志し,加藤宇万伎 (うまき) の門に入った。一方では浮世草子『諸道聴耳世間猿 (しょどうききみみせけんざる) 』 (1766) ,『世間妾形気 (てかけかたぎ) 』 (67) を発表。明和5 (68) 年読本『雨月物語』を著わし,安永5 (76) 年刊行。安永1 (72) 年に生活のため医者となり,そのかたわら国学にうちこみ,本居宣長との論争を展開。晩年は不幸が続き,著作を井戸に投込むこともあった。その他の著書に『癇癖談 (くせものがたり) 』 (91成立,1808刊) ,『金砂』 (04) ,『藤簍冊子 (つづらぶみ) 』『春雨物語』『胆大小心録』などがある。
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上田秋成 うえだ-あきなり
1734-1809 江戸時代中期-後期の読み本作者,国学者。
享保(きょうほう)19年6月25日生まれ。実父は不明で,4歳のとき大坂の紙油商嶋屋の養子となる。俳諧(はいかい),和歌,国学をまなび,浮世草子を執筆する。明和8年火災で家財をなくし,医をまなんで安永5年大坂で開業。同年「雨月物語」を刊行。また本居宣長(もとおり-のりなが)と国学上の論争をした。晩年は京都にすみ,国学書や「胆大小心録」「春雨物語」などをあらわした。文化6年6月27日死去。76歳。大坂出身。幼名は仙次郎。通称は東作。別号に鶉居,漁焉(ぎょえん)など。
【格言など】ああ,天は何が為に我を生みしか(肖像画の箱書)
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うえだ‐あきなり【上田秋成】
江戸中期の国学者、歌人、読本作者。通称東作(藤作)。号は漁焉、和訳太郎、剪枝畸人、無腸、休西、鶉兮、鶉翁など。大坂の人。紙油商上田茂助の養子。初めは浮世草子作家として「諸道聴耳世間猿」「世間妾形気」に鋭く滑稽な諷刺を示し、読本作家としては中国白話小説に材と方法を取り、「雨月物語」「ますらを物語」「春雨物語」に彫琢された説話と性格造形を示し、最高峰の位置を占める。また、直観的な観点により、本居宣長と国学上の論争を行なった。他に、「癇癖談(くせものがたり)」「胆大小心録」「藤簍冊子(つづらぶみ)」「清風瑣言」など。享保一九~文化六年(一七三四‐一八〇九)
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上田秋成
うえだあきなり
1734〜1809
江戸後期の国学者,歌人,浮世草子・読本 (よみほん) 作者
通称東作。筆名に和訳太郎・剪枝畸人 (せんしきじん) ・無腸など多数。大坂の人。国学史上では,本居宣長との論争が著名。主著に読本『雨月物語』『春雨物語』,随筆『胆大小心録』など。
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デジタル大辞泉
「上田秋成」の意味・読み・例文・類語
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上田秋成 (うえだあきなり)
生年月日:1734年6月25日
江戸時代中期;後期の歌人;国学者;読本作者
1809年没
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うえだあきなり【上田秋成】
1734‐1809(享保19‐文化6)
江戸中期の小説家。また歌人,茶人,国学者,俳人としても著名。本名上田東作,通称嶋屋仙次郎。別号に漁焉(ぎよえん),無腸,三余斎,余斎,鶉翁(じゆんおう),鶉居(うづらい),休西など。戯号に和訳太郎,剪枝(せんし)畸人,洛外半狂人がある。大坂曾根崎で私生児として生まれたが,生母が大和国名柄村庄屋末吉家の縁戚,松尾ヲサキであることは確定した。実父は,まだ確証を得ないが,秋成の出生時すでに死去していた小堀左門政報(まさつぐ)と考えられる。
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世界大百科事典内の上田秋成の言及
【雨月物語】より
…読本。剪枝(せんし)畸人(上田秋成)著。1768年(明和5)成立,76年(安永5)刊。…
【加藤美樹】より
…著書に《土佐日記註》《雨夜物語だみことば》《静舎歌集》など。その門下から上田秋成が出ていることは注目すべきである。【南 啓治】。…
【幻想文学】より
… 怪異を〈怪異〉として,幻想を〈幻想〉として対象化し認識するのは,近代の合理主義,自然科学的認識論の洗礼が多かれ少なかれ浸透して以後のことであり,その意味では,〈幻想文学〉なるものが主観的にもせよ成立するのは近代以後,少なくとも近代の曙光が文学的想像力に光を投げ始めてからのことと考えられる。日本では江戸時代,上田秋成が《雨月物語》で中国の小説などを下敷きに,平安朝以来日本的感受性にしみわたってきた伝統的幻想性を汲み上げながら意図的に〈幻想〉の核心を対象化して,近代日本幻想文学に直接に先行する始祖となった。明治以後,急激な西欧文明の流入,列強にいちはやく追いつき拮抗しようとする国策の進行によりヨーロッパの近代合理主義が知識人階級を席巻する。…
【諸道聴耳世間猿】より
…5巻。上田秋成の処女作であるが,和訳太郎の戯名で発表。気質物(かたぎもの)の形式をうけ,15話より成る。…
【世間妾形気】より
…浮世草子。和訳太郎(上田秋成)作。1767年(明和4)刊。…
【煎茶道】より
…中国の茶書を渉猟しての,文人趣味的な内容のものであるが,売茶翁の風流を継ぐものとされ,このころから茶の湯の世界を意識し,煎茶の独自性,存在を主張する行動が目だちはじめている。 そうした傾向をいっそう推し進めたのが江戸後期の国学者・歌人・小説家の上田秋成である。秋成は,医業を都賀庭鐘について学んでいるが,煎茶の技も同時に習ったものと思われる。…
【胆大小心録】より
…江戸時代の随筆。上田秋成著。1808‐09年(文化5‐6)成立。…
【都賀庭鐘】より
…66年に後編として《古今奇談・繁野話(しげしげやわ)》を出し,同様に中国白話小説を利用し,さらに晩年に続編として《古今奇談・莠句冊(ひつじぐさ)》を刊行し,初期読本の名作3編を残した。これらの作品は,上田秋成や建部綾足(たけべあやたり),山東京伝など,後の読本作者に創作方法の上で大きな影響を与えている。大坂天満に住し,儒医としての庭鐘は博学で有名であり,木村兼葭堂や,香道の大枝流芳らとよく交わり,秋成の学問の師のみならず,医学の師とも考えられている。…
【藤簍冊子】より
…江戸時代の歌文集。上田秋成著。1805年(文化2)3冊本刊,翌年に6冊本として出版。…
※「上田秋成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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