江戸中期の国学者、歌人、小説家。本名東作。秋成はその字(あざな)。手の障害にちなんだ無腸(むちょう)(蟹(かに)の意)や余斎の別号で知られた。大阪・曽根崎(そねざき)で出生。実母は大和(やまと)国樋野(ひの)村(奈良県御所(ごせ)市)の旧家松尾家の娘ヲサキ。実父については、小堀遠州直系の旗本小堀政報(こぼりまさつぐ)であったらしいとの説がある。4歳のとき実母の手を離れ、大阪・堂島永来(えら)町の紙油商嶋屋(しまや)上田茂助に養われた。生来虚弱でときどき驚癇(きょうかん)(ひきつけ)を発したというが、武士の出の実直な養父と、養母の没後(5歳)迎えられた第二の義母の慈愛のもとで愛育された。5歳のとき悪性の痘瘡(とうそう)にかかり九死に一生を得たものの、右の中指と左の第2指が短折する不幸を刻印された。このとき加島稲荷(かしまいなり)(香具波志(かぐはし)神社)の加護があったといわれ、生涯神恩を感謝している。青年時は遊蕩(ゆうとう)もあったなかで町人学校懐徳堂に通学、学問の素地を与えられたらしい。また20歳前後から俳諧(はいかい)に親しみ、高井几圭(たかいきけい)(1687―1761)について指導を受けるとともに、漁焉(ぞえん)の号で活躍。このころ下冷泉(しもれいぜい)家(藤原為栄(ふじわらためよし))について和歌の添削を受け、国語学者富士谷成章(ふじたになりあきら)と交友を結び、また唐音学者勝部青魚(かつべせいぎょ)(1712―1788)からは中国小説に対する眼(め)を開かれた。27歳の年、植山たまと結婚、1761年養父を失ったのちは、遊びが高じて浮世草子に筆を染め、33歳の年、八文字屋(はちもんじや)風の風俗小説『諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)』を和訳太郎の名で刊行、1767年には『世間妾形気(てかけかたぎ)』を出版、気質物(かたぎもの)末期の佳作と評される。すでに小島重家に勧められて契沖(けいちゅう)の書に接していた秋成は、33、34歳のころ賀茂真淵(かもまぶち)の高弟加藤宇万伎(かとううまき)に師事、新国学がもつ主題性に眼を開かれるなど決定的な影響を受け、宇万伎没後は独学で学問に務めた。
38歳の年、大火にあって破産、医者としてたつことを決意。儒医都賀庭鐘(つがていしょう)の門に入って手ほどきを受けたのち、加島村(大阪市淀川(よどがわ)区)に仮寓(かぐう)、修業に励むかたわら、古典の研究に打ち込み、この時期に和学研究の基礎がつくられた。1776年(安永5)、大坂へ出て医業を開業するとともに、怪異小説の傑作『雨月(うげつ)物語』を剪枝崎人(せんしきじん)の名で刊行。1778年には、寓言論として知られる独自な『源氏物語』の評論『ぬば玉の巻』を書いた。この時期、国学に親しむとともに一家の見識を培い、50歳を過ぎたころ、本居宣長(もとおりのりなが)との間に、古代の音韻および日の神(天照大神(あまてらすおおみかみ))の解釈をめぐって論争があった(のちに『呵刈葭(あしかりよし)』として編集)。宣長の古道論に対する秋成の批判は、宣長の「信」を衝(つ)いたものとして評価される。54歳の年、病のため、大坂の北、淡路庄(あわじのじょう)村(東淀川区)に退隠、以後定業につかず、文筆に従い学問に遊ぶ文人としての生き方に徹することになった。家業にいそしむ一民としての生き方を信条としながら芸文の遊びに走る自己を、秋成は狂蕩(きょうとう)の語でよんでいる。
60歳、わずかの蓄えをもって京都へ移ったあと、たびたび居を移しながら、村瀬栲亭(むらせこうてい)、小沢蘆庵(おざわろあん)、伴蒿蹊(ばんこうけい)らと交流、64歳の年、妻瑚璉尼(これんに)(たま、58歳)を失って孤独の身となった。57歳で左眼の明(めい)を失い、さらに右眼も失明したが、谷川良順の治療を得て左明を回復。この時期、大いに学問の研鑽(けんさん)に努め、『霊語通』『冠辞続貂(かむりごとつぎお)』『楢の杣(ならのそま)』『金砂(こがねいさご)』『よしやあしや』『安々言(やすみごと)』『遠駝延五登(おだえごと)』など、国語学、古典の注釈、史論にわたる書を著し、『落久保(おちくぼ)物語』や『大和(やまと)物語』を校刊した。最晩年の生活は悲惨で、厚情を寄せた知友の間を転々、随筆『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』に赤裸な自我を示すとともに、生涯のすべてを創作集『春雨(はるさめ)物語』に結実させ、文化(ぶんか)6年6月27日、京都の羽倉信美(はくらのぶよし)(1750―1828)邸で76年の生涯を閉じた。墓は南禅寺山内西福寺の内庭に現存する。
煎茶(せんちゃ)を好んで『清風瑣言(せいふうさげん)』の著があり、歌は万葉に関心を示したが、こだわらない自由な作風をみせ、歌文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』や『毎月集』に収められている。ほかに戯文の風刺小説『書初機嫌海(かきぞめきげんかい)』『癇癖談(くせものがたり)』、書簡文集『文反古(ふみほうぐ)』、随筆『茶瘕酔言(ちゃかすいげん)』、切れ字を論じた『也哉抄(やかなしょう)』、句集『俳調義論』などがある。秋成は、国学者としてよりは、井原西鶴(いはらさいかく)、曲亭馬琴(きょくていばきん)と並んで近世を代表する小説家として評価され、とくに『雨月物語』は、日本の小説史上、初めて短編の様式を完成させた作品として高く評価されている(石川淳(いしかわじゅん))。佐藤春夫、三島由紀夫など、影響を受けた近代の作家も少なくない。
[中村博保 2016年4月18日]
『『上田秋成全集』2冊(1917、1918/復刊・1974・国書刊行会)』▽『藤井紫影編『秋成遺文』(1919・修文館/復刊・1974・国書刊行会)』▽『中村幸彦校注『日本古典文学大系56 上田秋成集』(1959・岩波書店)』▽『高田衛著『上田秋成年譜考説』(1964・明善堂)』▽『浅野三平著『秋成全歌集とその研究』(1969・桜楓社/増訂版・2007・おうふう)』▽『高田衛著『鑑賞日本の古典18 秋成集』(1981・尚学図書)』▽『中村博保著『上田秋成の研究』(1999・ぺりかん社)』
江戸中期の小説家。また歌人,茶人,国学者,俳人としても著名。本名上田東作,通称嶋屋仙次郎。別号に漁焉(ぎよえん),無腸,三余斎,余斎,鶉翁(じゆんおう),鶉居(うづらい),休西など。戯号に和訳太郎,剪枝(せんし)畸人,洛外半狂人がある。大坂曾根崎で私生児として生まれたが,生母が大和国名柄村庄屋末吉家の縁戚,松尾ヲサキであることは確定した。実父は,まだ確証を得ないが,秋成の出生時すでに死去していた小堀左門政報(まさつぐ)と考えられる。この説が正しければ,秋成は近世初期の数寄大名として著名な小堀遠州の隠れた子孫ということになる。出生問題ばかりでなく,生い立ちも数奇をきわめていて,4歳のとき生母に捨てられ,大坂堂島永来町の富裕な紙油商,上田茂助の養子となった。以後,養父母の慈愛のもとに成人し,家職を継ぐことになるのだが,幼時期に悪性の痘瘡を病み,後遺症として両手指が奇形になるということもあり,そのためもあってか,青年期にはみずからを〈浮浪子(のらもの)〉と称する遊蕩児時代があった。その間に遊びとしての俳諧を覚え,漁焉と号して小野紹簾(しようれん)系の青年俳人として活躍した。富士谷成章(なりあきら)や勝部青魚(せいぎよ)など,白話小説通との交友も,この俳諧の遊びを媒介にしていた。そうした遊蕩児体験が,次に彼を浮世草子への執筆へとかりたてた。1766年(明和3)和訳太郎の戯名で《諸道聴耳世間猿(しよどうききみみせけんざる)》を刊行し,しんらつに暗い世相を浮かびあがらせた。翌年には《世間妾形気(せけんてかけかたぎ)》を刊行,上記2著はいずれも気質(かたぎ)物浮世草子である。このころ,秋成は2人の知識人と出会い,それが決定的な人生の転機ともなった。ひとりは,大番与力を職とする国学者加藤美樹(宇万伎)(うまき)であり,もうひとりは大坂天満の医師,白話小説家都賀庭鐘(つがていしよう)である。前者から,日本の古典の美しさとその学問を,後者から,中国白話小説の斬新なおもしろさを教えられ,彼は大きく文学的に触発された。生来の文学的才能はみごとに開花し,68年春,一気に《雨月物語》を書きあげた。しかし,その出版をみる前に,71年火災に遭って,家・財産を失い,養母,妻たま女(植山氏)をかかえて路頭に迷う状態に落ちた。数年間は大坂北郊加島村の加島稲荷(香具波志神社)社家藤氏に寄寓し,木村蒹葭堂(けんかどう)その他の友人に助けられつつ医を学び,76年(安永5),43歳にして再び大坂に戻り町医師となった。このころは,医師,俳人,学者としての名はようやく高く,蕪村一門とも交際した。《雨月物語》が刊行されたのもこの年である。86年(天明6)のころ,日ごろ不信を抱いていた伊勢人本居宣長に対して,その著書《鉗狂人(けんきようじん)》の評を中心に,その皇国絶対化の思想を激しく批判し,宣長もこれに尖鋭に応酬した。これが《呵刈葭(かかいか)》(1788成立)にまとめた,宣長・秋成論争である。この論争に嫌気がさしたこと,健康を害したことなどの理由で,この年にわかに医を廃業し,大坂北郊の淡路庄村に隠遁した。ときに54歳である。隠者として過ごしたその後の7年の間に,茶道書《清風瑣言(せいふうさげん)》,戯著《書初機嫌海(かきぞめきげんかい)》《癇癖談(くせものがたり)》,国学関係書《古今和歌集打聴(うちぎき)》(賀茂真淵述),《伊勢物語古意》(真淵述),《あがた居の歌集》(真淵),《しず屋の歌集》(宇万伎)などを,著刊あるいは校刊している。その癇癖とともに文人としての名も知られていた。93年(寛政5),60歳のとき,漂然と淡路庄村の居宅を捨てて,妻,妻の母を連れて上京し,以後,京都を中心に,知己や後援者をたよって次々に転居をくり返す漂泊の生活に入った。小沢蘆庵,村瀬栲亭,羽倉信美,足立紫蓮尼,正親町三条公則卿らの晩年の知己,後援者に恵まれる一方,姑,妻瑚璉尼(1798没)らに死なれ,養女恵遊尼に去られ,天涯孤独な身となり,嫌人癖はさらにつのっていった。左眼を失明していた彼は,妻の突然の死による悲しみで右眼も失明したが,のち名医谷川良順と出会い,左眼の明を回復した。その間にも,歌,文章,古典論考を営々と書き,その一部は《藤簍冊子(つづらぶみ)》(1805),《文反古(ふみほうぐ)》(1808)となって公刊された。自己の死を予期しつつ,独自な随筆集《胆大小心録》を書き,名作《春雨物語》を書きつつ,76歳の文化6年6月27日,門人羽倉信美の邸内で一生を終わった。彼の一生は江戸時代中期の自己破滅型文人の典型であり,その生き方と,豊饒な幻想を織りあげた作品は,江戸後期の戯作者,山東京伝,曲亭馬琴らにも深い感銘を与えている。
執筆者:高田 衛
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(飯倉洋一)
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1734.6.25~1809.6.27
江戸中期の国学者・歌人・読本作者。本名は仙次郎,のち東作。号は秋成・無腸など。大坂生れ。商人の娘の私生児として生まれ,4歳で紙油商上田家の養子となる。痘瘡の後遺症のテンカン質性の発作を克服し,俳諧・和歌・国学・医学を学び,医者を開業。その間,和訳太郎の名で異色の浮世草子「諸道聴耳(ききみみ)世間猿」「世間妾形気(てかけかたぎ)」を執筆。都賀庭鐘(つがていしょう)に影響をうけて「雨月物語」を書く一方で,古代国語の音韻や記紀の日神をめぐって本居宣長と論争。晩年の「春雨物語」は彼の多面的活動の集大成。
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…著書に《土佐日記註》《雨夜物語だみことば》《静舎歌集》など。その門下から上田秋成が出ていることは注目すべきである。【南 啓治】。…
…近世後期の小説。上田秋成作。2巻。…
… 怪異を〈怪異〉として,幻想を〈幻想〉として対象化し認識するのは,近代の合理主義,自然科学的認識論の洗礼が多かれ少なかれ浸透して以後のことであり,その意味では,〈幻想文学〉なるものが主観的にもせよ成立するのは近代以後,少なくとも近代の曙光が文学的想像力に光を投げ始めてからのことと考えられる。日本では江戸時代,上田秋成が《雨月物語》で中国の小説などを下敷きに,平安朝以来日本的感受性にしみわたってきた伝統的幻想性を汲み上げながら意図的に〈幻想〉の核心を対象化して,近代日本幻想文学に直接に先行する始祖となった。明治以後,急激な西欧文明の流入,列強にいちはやく追いつき拮抗しようとする国策の進行によりヨーロッパの近代合理主義が知識人階級を席巻する。…
…浮世草子。和訳太郎(上田秋成)作。1767年(明和4)刊。…
…中国の茶書を渉猟しての,文人趣味的な内容のものであるが,売茶翁の風流を継ぐものとされ,このころから茶の湯の世界を意識し,煎茶の独自性,存在を主張する行動が目だちはじめている。 そうした傾向をいっそう推し進めたのが江戸後期の国学者・歌人・小説家の上田秋成である。秋成は,医業を都賀庭鐘について学んでいるが,煎茶の技も同時に習ったものと思われる。…
…江戸時代の随筆。上田秋成著。1808‐09年(文化5‐6)成立。…
…66年に後編として《古今奇談・繁野話(しげしげやわ)》を出し,同様に中国白話小説を利用し,さらに晩年に続編として《古今奇談・莠句冊(ひつじぐさ)》を刊行し,初期読本の名作3編を残した。これらの作品は,上田秋成や建部綾足(たけべあやたり),山東京伝など,後の読本作者に創作方法の上で大きな影響を与えている。大坂天満に住し,儒医としての庭鐘は博学で有名であり,木村兼葭堂や,香道の大枝流芳らとよく交わり,秋成の学問の師のみならず,医学の師とも考えられている。…
…江戸時代の歌文集。上田秋成著。1805年(文化2)3冊本刊,翌年に6冊本として出版。…
…読本。上田秋成作。10巻。…
※「上田秋成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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