江戸前期の俳人。別号は晋子,宝晋斎など。姓は母方の榎本を称し,のち宝井と改めた。父は医師竹下東順。江戸に生まれた。草刈三越に医を,大顚和尚に詩,易を学んだという。10代の半ば芭蕉に入門,20歳のころ,おりからの〈天和調(てんなちよう)〉の中で,芭蕉の指導の下に,《田舎之句合(いなかのくあわせ)》《虚栗(みなしぐり)》などを編んだ。その後もよく芭蕉の変風を理解し,《続虚栗》《いつを昔》などに蕉風俳諧の実を示し,《猿蓑(さるみの)》序や《雑談(ぞうたん)集》に俳諧を〈幻術〉として説くなど,彼らしい俳諧,俳人に対する見解を見せている。芭蕉の信頼も晩年までかわらず,1694年(元禄7)上方旅行中奇しくも芭蕉の死に行きあい,《芭蕉翁終焉記》を書き《枯尾花(かれおばな)》を刊行した。資質的には芭蕉の閑寂に対して伊達を好み,作意をたくむはなやかな作風に特色があり,芭蕉から〈かれは定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍る〉(《去来抄》)と評された。元禄10年代,大名や富商の門に出入りし,作風も浮世的人事風俗や遊興的な作意に新しい展開を見せ,〈洒落(しやれ)風〉と称された。自撰の発句集《五元(ごげん)集》は,門人旨原によってまとめられた《五元集拾遺》とともに1745年(延享2)刊行された。門下に祇空,貞佐,淡々,秋色(しゆうしき),巴人(はじん)らがおり,巴人の門から蕪村が出ている。編著書はほかに《華摘(はなつみ)》《萩の露》《句兄弟》《末若葉(うらわかば)》《焦尾琴(しようびきん)》,遊女評判記《吉原源氏五十四君》などがある。〈明星や桜さだめぬ山かつら〉(《五元集》)。
→江戸座
執筆者:石川 八朗
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江戸中期の俳人。芭蕉(ばしょう)門の高弟。寛文(かんぶん)元年7月17日江戸に生まれる。父は本多藩の医師。榎本(えのもと)氏、のちに宝井氏を名のる。14、15歳ごろ芭蕉門に入る。23歳、俳諧(はいかい)集『虚栗(みなしぐり)』刊行(1683)。翌年、京坂への旅に出、西鶴(さいかく)をはじめ多くの他門の知己も得て、幅広い芭蕉門作家として活躍。『続虚栗』(1687)、『いつを昔』(1690)など、独自の作風になる作品を発表してゆくが、芭蕉風の作品にも多くの佳句を示す。1694年(元禄7)上方(かみがた)への旅に出て、偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じえて、葬儀万端を済ませ、追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行。性、豪放闊達(かったつ)、大酒、また遊里の作品も多い反面、情に厚く、師芭蕉、友人、父母、娘などの死に出会っての作品に優れたものが多い。芭蕉没後、『末若葉(うらわかば)』(1697)、『焦尾琴(しょうびきん)』(1701)刊。宝永(ほうえい)4年2月30日没。枕頭(ちんとう)に自選発句(ほっく)集『五元(ごげん)集』、俳文・俳諧撰集(せんしゅう)『類柑子(るいこうじ)』の2著があった。芭蕉没後の作風は、洒落(しゃれ)風とよばれ、都会風俳諧に特色を示し、後の江戸座の祖とされ、江戸文化に大きく影響を与える。この作風には賛否両論があるが、作品の多くは難解で、江戸文化解明のためにも今後の研究がまたれる。また解明過程に師芭蕉とは別の世界が開けてくることも事実である。
[今泉準一]
行く水や何にとどまる海苔(のり)の味
『勝峰晋風編『其角全集』全1巻(1921・聚英閣)』▽『今泉準一著『五元集の研究』(1980・桜楓社)』
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…このとき以来菱皮鬘(ひしかわかつら)に一本隈という扮装で荒事の演出が行われ,代々市川家の家の芸とされ,源吾は勇猛の士としての性格に強調点がおかれたが,この演出はいつか絶えた。宝井其角が両国橋で煤払(すすはらい)竹売りに身をやつし吉良邸の様子を探る源吾に出会い,〈年の瀬や水の流れと人の身は〉の発句に対し,源吾が〈あした待たるるその宝舟〉と付けたという巷説があり,1856年(安政3)5月森田座初演《新台(しんぶたい)いろは書初》(3世瀬川如皐作)で舞台化され,さらに90年5月歌舞伎座初演《実録忠臣蔵》(福地桜痴作,3世河竹新七補)に引きつがれ,その一部が独立して1907年10月初演《土屋主税》また《松浦の太鼓》となった。源吾の俳人子葉(しよう)としての側面は講談《義士銘々伝》中にも強調され,真山青果作《元禄忠臣蔵》(〈吉良屋敷裏門〉〈泉岳寺〉の場)でも俳人であり勇者である両面が描かれている。…
…いわゆる七部集の連句を例にとっても,《冬の日》(1684)は名古屋蕉門,《ひさご》(1690)は近江蕉門,《猿蓑》は京蕉門,《炭俵》(1694)は後期江戸蕉門の所産で,前期江戸蕉門はもとより,芭蕉とこの変風を終始ともにした門人は皆無といってよい。景情融合の理想は,芭蕉没後,〈軽み〉を継承して景先情後を推し進める支考流と,情先景後に向かう其角流とに分裂し,前者は地方俳壇で平俗化し,後者は都市俳壇で奇矯化の道をたどった。【白石 悌三】。…
…許六の〈師の説〉に〈十哲の門人〉と見えるが,だれを数えるかは記されていない。その顔ぶれは諸書により異同があるが,1832年(天保3)刊の青々編《続俳家奇人談》に掲げられた蕪村の賛画にある,其角,嵐雪,去来,丈草,許六(きよりく),杉風(さんぷう),支考,野坡(やば),越人(えつじん),北枝(各項参照)をあげるのがふつうである。【石川 八朗】。…
…風虎没後に同家を去り,1687年に姓号を改めて俳諧宗匠となり,また合歓堂と号す。素堂の仲介で蕉門の其角と親交を結び,其角没後はその洒落風を継承して,過渡期の江戸俳壇を統率する位置に立ち,点者として一世を風靡した。作意を重視する知的な作風で,五典・八景などの題詠や付題鑑賞を得意とし,芭蕉よりも其角を高く評価した。…
…芭蕉も《三等の文》(元禄5年曲水宛書簡)で〈点取に昼夜をつくし,勝負に道を見ずして走りまはる〉と言っているように,即吟即点が流行していた。其角は〈半面美人〉の点印を洒落風俳諧の高点句に印し,点取り競争をあおった。とくに享保期(1716‐36)の江戸,京都,大坂で流行し,百韻を中心に連衆(れんじゆ)の点を計算して順位を定め,景品もそえるなどして時好に投じた。…
…1694年(元禄7)に出た其角編の芭蕉追善集《枯尾花》に収める,其角作の芭蕉追悼文。内容は,孤独貧窮と徳業に富むという点を芭蕉の生涯の基本とし,その生涯にわたって,旅や草庵における,あるいは古人や門人とのかかわりの中での芭蕉の行動を,その折々の句文を引用しながら述べる。…
…俳諧撰集。其角編。1683年(天和3),京都西村市郎右衛門板。…
※「其角」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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