松森村(読み)まつもりむら

日本歴史地名大系 「松森村」の解説

松森村
まつもりむら

[現在地名]泉市鶴が丘つるがおか一―四丁目・歩坂町ほさかちよう南光台なんこうだい一―七丁目・南光台東なんこうだいひがし一―二丁目・南光台南なんこうだいみなみ一―三丁目・松森

現泉市の東端に位置し、七北田ななきた川の河岸段丘上に立地。川沿いの平坦地から北はなべ(一三一・三メートル)、南は七〇メートル級の黒松くろまつ山・笹森ささもり山へと低丘陵が続く。東は岩切いわきり(現仙台市)、西は七北田村・市名坂いちなさか村、北は黒川郡明石あかいし(現富谷町)、南はつる(現仙台市)。「伊達正統世次考」年未詳(天文五―八年の間か)一二月二六日条に「此の上に至り晴重相談を以て、其の地の合戦を止め、松森通用違い無からんことを要す」とあり、この条に付せられた按文に「国分氏世々千代城に住し、中ごろ小泉に徙り、終りに松森城に移り居ると云う。此の時蓋し松森に居る乎」とみえる。この頃国分氏は当地松森城に居城していたようである。また「伊達天正日記」天正一六年(一五八八)四月五日条に「田副帯刀助松森より被帰申候」、同六日条に「芳賀対馬・堀之内蔵人主、自松森参被申候」とみえ、松森が伊達氏家臣の所領になっていたことをうかがわせる。慶長六年(一六〇一)正月一〇日の伊達政宗伝馬黒印状(伊達家文書)には「伝馬五疋、無異儀可相出者也」として、黒川・国分こくぶなどとともに松森があげられている。

正保郷帳によると田一〇六貫九六二文・畑二一貫二八九文、ほかに新田八貫七一九文。


松森村
まつもりむら

[現在地名]青森市松森

田屋敷たやしき村の西、北流する駒込こまごめ川の古館ふるだて村下流にある。

延宝八年(一六八〇)横内組につくられた派立新田二千八〇〇石のうちの一村である(津軽歴代記類)。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高二八五・九石とあり、同四年の検地帳には、田方四四町二畝一三歩、畑方一三町五反八畝一四歩、田畑屋敷合せて五七町六反二七歩、村高二五六・四八五石とある。


松森村
まつもりむら

[現在地名]美濃市松森

長良川左岸に位置し、西は小俣こまた川を隔てて生櫛いくし村と接し、東部に松鞍まつくら山がある。北は上有知こうずち村。村内を南北に郡上ぐじよう街道が通る。江戸初期の金森氏領・幕府領を経て、元和元年(一六一五)尾張藩領となり幕末に至る。慶長郷帳に村名がみえ、村高四五三石余。正保郷帳では田高一八一石余・畑高二六五石余・山年貢六石。明暦覚書では概高七三〇石余、人数三二三、馬三六。


松森村
まつもりむら

[現在地名]春日町松森

北端を竹田たけだ川が流れ対岸下三井庄しもみのしよう村、南はかがみ峠を越えて多紀たき小坂こさか(現篠山市)。「丹波志」では当村と広瀬ひろせ和田貝わだがい三村肩書に「古王子谷」とみえ、一村をなしていたと考えられる。領主の変遷は産所さんじよ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一八〇石余・畠高六一石余。柴山・林あり、日損少し。元禄郷帳では高二二三石余。元禄一二年(一六九九)の氷上郡郷村明細帳(氷上郡志)によると高二六〇石余。


松森村
まつのもりむら

[現在地名]広見町生田いくた

大宿おおじゆく川中流域の谷あいに位置する。北は大宿村、南は清水せいずい村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「松森村 柴山茅山、小川有」と村名がみえる。「宇和旧記」には「松ノ森村」、宝永三年(一七〇六)の「大成郡録」には「マツノモリ」と表記されるが、幕末には改称されたと考えられ、旧高旧領取調帳には「生田村」とある。宇和島藩領。

太閤検地石高は六二〇石八斗で、耕地面積の比率は田七五パーセント、畑二五パーセント。寛文検地には石高が二三パーセント増加し、田五一パーセント、畑四九パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「上」、田が「上」、畑は「中」とされ、水掛りは「吉」となっている。


松森村
まつもりむら

[現在地名]武生市松森町

府中町の南にあって北陸街道に沿い、南の行松ゆきまつ村に続く。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では、「末松行松村」(高八〇二・〇八一石)に含まれる。正保郷帳は当村を「末松村」と記し、貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」以降「松盛村」とみえ、江戸後期に松森になった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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