松森村
まつもりむら
[現在地名]青森市松森
田屋敷村の西、北流する駒込川の古館村下流にある。
延宝八年(一六八〇)横内組につくられた派立新田二千八〇〇石のうちの一村である(津軽歴代記類)。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高二八五・九石とあり、同四年の検地帳には、田方四四町二畝一三歩、畑方一三町五反八畝一四歩、田畑屋敷合せて五七町六反二七歩、村高二五六・四八五石とある。
松森村
まつもりむら
[現在地名]美濃市松森
長良川左岸に位置し、西は小俣川を隔てて生櫛村と接し、東部に松鞍山がある。北は上有知村。村内を南北に郡上街道が通る。江戸初期の金森氏領・幕府領を経て、元和元年(一六一五)尾張藩領となり幕末に至る。慶長郷帳に村名がみえ、村高四五三石余。正保郷帳では田高一八一石余・畑高二六五石余・山年貢六石。明暦覚書では概高七三〇石余、人数三二三、馬三六。
松森村
まつもりむら
[現在地名]春日町松森
北端を竹田川が流れ対岸は下三井庄村、南は鏡峠を越えて多紀郡小坂村(現篠山市)。「丹波志」では当村と広瀬・和田貝三村の肩書に「古王子谷」とみえ、一村をなしていたと考えられる。領主の変遷は産所村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一八〇石余・畠高六一石余。柴山・林あり、日損少し。元禄郷帳では高二二三石余。元禄一二年(一六九九)の氷上郡郷村明細帳(氷上郡志)によると高二六〇石余。
松森村
まつのもりむら
[現在地名]広見町生田
大宿川中流域の谷あいに位置する。北は大宿村、南は清水村に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「松森村 柴山茅山、小川有」と村名がみえる。「宇和旧記」には「松ノ森村」、宝永三年(一七〇六)の「大成郡録」には「マツノモリ」と表記されるが、幕末には改称されたと考えられ、旧高旧領取調帳には「生田村」とある。宇和島藩領。
太閤検地の石高は六二〇石八斗で、耕地面積の比率は田七五パーセント、畑二五パーセント。寛文検地には石高が二三パーセント増加し、田五一パーセント、畑四九パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「上」、田が「上」、畑は「中」とされ、水掛りは「吉」となっている。
松森村
まつもりむら
[現在地名]武生市松森町
府中町の南にあって北陸街道に沿い、南の行松村に続く。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では、「末松行松村」(高八〇二・〇八一石)に含まれる。正保郷帳は当村を「末松村」と記し、貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」以降「松盛村」とみえ、江戸後期に松森になった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報