春日町(読み)かすがちよう

日本歴史地名大系 「春日町」の解説

春日町
かすがちよう

面積:七五・六四平方キロ

氷上郡の南東部に位置し、北から東にかけては市島いちじま町、京都府天田あまた三和みわ町、南から西にかけては篠山市、柏原かいばら町・氷上町に接する。野瀬のせ谷に水源地をもつ竹田たけだ川最上流の地域である。旧石器時代では、姶良Tn火山灰の純粋堆積層の下層に広がるシルト層から、九ヵ所の大ブロックが発掘された七日市なぬかいち遺跡がある。縄文時代草創期の国領こくりよう遺跡からは有舌尖頭器と石鏃が伴出し、尖頭器の未製品を主体とすることから製作跡とみられている。弥生時代には拠点的集落である七日市遺跡があり、遺跡南端(旧称野村遺跡)からは銅剣形石剣が出土している。


春日町
かすがまち

[現在地名]上越市南本みなみほん町三丁目・ほん町一丁目

せき町の北端で左折した北国街道はしばらく西進したのち再び直角に折れて北進する。当町はその西進部分と北進後の本町ほんまち(北国街道)の両側に展開する町で、前者を横春日町、後者を竪春日町と通称。横春日町の長さおよそ二八〇間、竪春日町はおよそ一七三間(高田市史)春日山かすがやま城下・福島ふくしま城下時代からの町で、名称は春日山東麓に鎮座する春日神社に由来。高田城下に移転後は高田宿の人足役を勤めた。天和期(一六八一―八四)の調によると役を負担する町で、屋敷数九一、名主がいた(頸城郡誌稿)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)によると井戸数一七一、素読指南一人・手習師匠一人・湯屋一人・紺屋四人・塗師屋二人がおり、「来往之人足ハ春日町一町ニ勤来候」とある。


春日町
かすがまち

[現在地名]金沢市春日町・小金町こがねまち

卯辰うたつ山丘陵を背にしてやまうえ町の北東に続く北陸街道の両側町で地子町。北東は大樋おおひ町。南より順に一丁目から五丁目までに分れる(天保町絵図)。町の外側はおおむね郡地で東は山上やまのうえ村・談議所だんぎしよ村、西は小坂こさか村。三丁目の東のみ談議所だぎしよ町に接する。通りの長さは一丁目が約一町一五間、二丁目は約一町二〇間、三丁目は約五〇間、四丁目は約一町八間、五丁目は約一町二六間(皇国地誌)。文化八年(一八一一)の金沢町絵図名帳に山ノ上町・大樋町の両町との境に木戸が、付近東側に山上村へ通じる小路がみえる。


春日町
かすがまち

[現在地名]福井市西木田にしきだ一丁目

鍛冶かじ町の東に続く町端にあり、東郷とうごうから大野城下へ至る東郷道・大野街道の春日口にあたる。年貢を納める地方町。通りの南側にある春日神社に町名が由来する。春日神社(旧村社)は中世奈良興福寺領木田庄の惣社であったと考えられ、暦応二年(一三三九)一二月日付得江頼員軍忠状(得江文書)に「五月六日、西方寺并中島城凶徒等、寄来木田城之間、馳向春日宮前、致散々合戦追帰御敵訖」とみえるが、文中の「春日宮」がこの春日神社であろう。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「地方春日町 三拾弐間、鍛冶町ヨリ東郷口迄、但道幅二間半」と記す。


春日町
かすがちよう

[現在地名]弘前市春日町

城の北側に位置し、大久保おおくぼ堰を挟んで南は馬喰ばくろ町・若党わかどう町の後町と接する。

国日記正徳元年(一七一一)四月一二日条の新割町名之覚に「春日町 馬喰町後新割屋敷之名」とあり、馬喰町の後背地に形成された地域を、新たに春日町とした。延宝五年(一六七七)弘前惣御絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、大久保堰を挟んだ馬喰町の後背地には、一九軒の屋敷割うち空屋敷四があり、武家屋敷大部分である。


春日町
かすがちよう

[現在地名]函館市青柳町あおやぎちよう

明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際に成立した町(「事業報告」第一編)青柳町の東、函館山東側山裾の平坦地に位置し、南から北に一―三丁目となっていた(明治六年函館旧市街図)。同九年の現住戸口は四四戸・二二三人(函館支庁管内村町別戸口表)。同三〇年の戸数二三八・人口九七八(伊藤鋳之助文書)


春日町
かすがちよう

上京区烏丸通椹木町下ル

町の東を烏丸からすま(旧烏丸小路)が通る。平安京の条坊では左京二条三坊四保九町の中央以東の地で、平安中期以降は中御門大路烏丸小路なかみかどおおじからすまこうじ南の地。近世初期は足利義昭の旧二条城の跡地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「春日町」とみえ、以後この呼称が多く用いられた。「坊目誌」は春日小路(現丸太町通)の北にあるからと記すが、「京雀」に「この町に春日明神の小社有」とあり、一考を要する。


春日町
かすがまち

[現在地名]松山市春日町

松山城下町の南端に位置し、末広すえひろ町の東側を縦・横に通る町筋。東と南は藤原ふじわら村、西と北は末広町に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「惣町数七拾壱町」のなかにも、各種の城下町図のなかにも町名が記されていないので、江戸後期になって春日町と公称されるようになったのであろう。


春日町
はるひちよう

1990年4月1日:西春日井郡春日村が町制施行
【春日村】愛知県:西春日井郡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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