日本大百科全書(ニッポニカ) 「林彪事件」の意味・わかりやすい解説
林彪事件
りんぴょうじけん
中華人民共和国の最大の政治事件の一つだが、依然として真相は不明である。1972年7月、中国当局が公表したところによると、71年9月、中国共産党副主席、林彪が、毛沢東(もうたくとう)主席暗殺計画に失敗して空軍機で逃亡を企て、モンゴルで墜落死したという。林彪は、文化大革命期に「毛沢東思想」を絶対化し、人民解放軍を率いて毛沢東主席を支援し、中国共産党九全大会(1969)で毛沢東後継者に指名されていた。
やがて1973年夏の中国共産党十全大会で政治報告を行った周恩来総理は、林彪事件についてこう述べている。「1970年8月、第9期中央委員会第2回総会で、反革命クーデターを起こして未遂に終わり、1971年3月、反革命武装クーデター計画『〈五七一工程〉紀要』をつくり、9月8日、反革命武装クーデターを起こして偉大な指導者毛主席を謀殺し、別に中央をつくろうとするところまで突っ走ったのである。陰謀が失敗に終わったあと、林彪は9月13日、ひそかに飛行機に乗って、ソ連修正主義に身を投じ、党を裏切り、国に背き、モンゴルのウンデルハンで墜死した」。「〈五七一工程〉紀要」の「五七一(ウーチーイー)」とは、武装蜂起(ほうき)を意味する「武起義(ウーチーイー)」の音のもじりであり、流布されている「紀要」によれば、毛沢東を「現代の秦(しん)の始皇帝」だとして、その打倒を呼びかけていた。
この衝撃的な林彪事件には、なお重大な謎(なぞ)が秘められているといえようが、この事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。
いずれにせよ林彪事件は、文化大革命が生み出した深刻な政治的矛盾を自らさらけ出し、権力闘争としての文化大革命の大いなる虚妄を物語ることとなった。
[中嶋嶺雄]