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林彪事件 りんぴょうじけん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

林彪事件
りんぴょうじけん

1971年,毛沢東の後継者とされた林彪が起こしたクーデター未遂事件。1969年の九全大会で,林彪は毛沢東の後継者として指名され,夫人葉群,部下の黄永勝(軍参謀総長),呉法憲(空軍指令員),李作鵬(海軍政治委員),邸会作(総後勤部長)も政治局員に昇進,陰謀手段を使い権力の拡大をはかったとされる。

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知恵蔵2015の解説

林彪事件

文革時代、人民解放軍指導者として一貫して毛沢東を支えた林彪・中国共産党副主席兼国防相が1971年9月、毛主席暗殺計画を企てたが成功せず、逃亡途中にモンゴルで墜落死したという衝撃的な事件。彼は69年4月の中国共産党9全大会(第9回党大会)で、毛沢東の後継者に指名されていた。「71年3月、林彪は『〈571工程〉紀要』を作成。9月8日、反革命武装クーデターを起こして偉大な指導者毛主席を謀殺し、別に中央を作ろうとするところまで突っ走ったのである。陰謀が失敗に終わった9月13日、彼はひそかに飛行機に乗って、ソ連修正主義に身を投じ、党を裏切り、国に背き、モンゴルのウンデルハンで墜死した」――73年夏、中国共産党10全大会(第10回党大会)で周恩来首相は、林彪事件についてこのように報告した。この事件には、現在でも多くの謎が残されているが、事件の基本的性格は、文革期における軍と党・行政官僚トップの対立ととらえることができる。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

林彪事件
りんぴょうじけん

中華人民共和国の最大の政治事件の一つだが、依然として真相は不明である。1972年7月、中国当局が公表したところによると、71年9月、中国共産党副主席、林彪が、毛沢東(もうたくとう)主席暗殺計画に失敗して空軍機で逃亡を企て、モンゴルで墜落死したという。林彪は、文化大革命期に「毛沢東思想」を絶対化し、人民解放軍を率いて毛沢東主席を支援し、中国共産党九全大会(1969)で毛沢東後継者に指名されていた。
 やがて1973年夏の中国共産党十全大会で政治報告を行った周恩来総理は、林彪事件についてこう述べている。「1970年8月、第9期中央委員会第2回総会で、反革命クーデターを起こして未遂に終わり、1971年3月、反革命武装クーデター計画『〈五七一工程〉紀要』をつくり、9月8日、反革命武装クーデターを起こして偉大な指導者毛主席を謀殺し、別に中央をつくろうとするところまで突っ走ったのである。陰謀が失敗に終わったあと、林彪は9月13日、ひそかに飛行機に乗って、ソ連修正主義に身を投じ、党を裏切り、国に背き、モンゴルのウンデルハンで墜死した」。「〈五七一工程〉紀要」の「五七一(ウーチーイー)」とは、武装蜂起(ほうき)を意味する「武起義(ウーチーイー)」の音のもじりであり、流布されている「紀要」によれば、毛沢東を「現代の秦(しん)の始皇帝」だとして、その打倒を呼びかけていた。
 この衝撃的な林彪事件には、なお重大な謎(なぞ)が秘められているといえようが、この事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。
 いずれにせよ林彪事件は、文化大革命が生み出した深刻な政治的矛盾を自らさらけ出し、権力闘争としての文化大革命の大いなる虚妄を物語ることとなった。[中嶋嶺雄]

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