中国の軍人、政治家。湖北省出身。1924年、第一次国共合作のなかで黄埔軍官学校に入り、翌1925年中国共産党入党。1926年からの北伐には将校として従軍、1927年、国共分裂後、南昌(なんしょう/ナンチャン)暴動に参加し、翌1928年、井岡山(せいこうざん)に入って、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)、朱徳に従い紅軍の中隊長、大隊長などに任じ、長征の際は第一軍団司令。1937年には八路軍第一一五師団長として日本の板垣兵団を平型関で撃破した。1939年、延安の抗日軍政大学校長となり、そのあと2年余り当時のソ連で療養。1945年、延安で開かれた中国共産党第6回大会で中央委員に選出された。
抗日戦争終了後、1946年、東北民主連軍(のち東北人民解放軍)司令として国民党軍を撃破、天津(てんしん/ティエンチン)、北京(ペキン)を解放した。その後、第四野戦軍司令、中南軍政委員会主席として南下、朝鮮戦争では彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)と交替して義勇軍総司令。1954年、国務院副総理、国防委員会副主席。1955年、中国共産党政治局員、元帥、1958年、党中央委副主席、政治局常務委員、1959年には彭徳懐にかわって国防部長となって、毛沢東思想の学習宣伝を積極化した。
1966年からの文化大革命では運動の先頭にたち、1969年の第9回大会では党規約に毛沢東主席の後継者と明記されたが、1971年9月、武装クーデターを計画して失敗、旧ソ連へ亡命を企て、モンゴルのウンデルハンで飛行機が墜落、死亡した。死後、批林批孔運動が起こり、孔子批判に結び付けての林彪批判が展開された。
[安藤彦太郎]
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中国の軍人。湖北省黄岡の出身。1924年黄埔軍官学校に入り,26年北伐に参加,27年8月南昌蜂起に参加。朱徳の指揮下で28年井岡山で毛沢東部隊と合流,24歳で紅4軍長。さらに第1軍団司令に昇進して長征に参加。36年延安で抗日軍政大学校長,国共再合作で第115師長に任ぜられ,37年9月平型関の戦で日本軍第5師団に大損害を与えて,八路軍の名声をあげた。38年3月負傷してソ連に赴いて治療,国共内戦では東北民主聯軍司令,第4野戦軍司令となり,48年10月の遼瀋戦役で東北にあった国民党政府軍精鋭部隊を殲滅(せんめつ)し,内戦の勝利を決定的にした。50年朝鮮戦争に人民義勇軍司令として参戦,54年副首相,55年最年少の元帥になる。59年彭徳懐が大躍進を批判して罷免されると国防相になり,四つの第一(武器と人では人が第一。各種工作と政治工作では政治工作が第一。事務工作と思想工作では思想が第一。本の上の思想と生きた思想では生きた思想が第一)を唱えて《毛沢東語録》を編集し,毛沢東思想学習運動を起こした。
1966年文化大革命が始まると解放軍は紅衛兵の活動を援護し,〈三支両軍〉(左派,労働者,農民を支持し,軍事管制,軍事訓練を行う)で工場,機関などに進駐して,文革の推進に努めた。林彪の党内地位は上昇し,66年8月党第1副主席,69年4月の第9回党大会での党規約改正では〈毛沢東同志の最も親密な戦友で後継者〉と明記された。しかしこのころからしだいに党内で孤立化し,70年中国共産党9期2中全会で国家主席の地位を望んで果たさず,71年9月反毛クーデタを計画したが失敗し,飛行機で逃亡を企て,モンゴルのウンデルハンで墜落死亡した。
執筆者:宍戸 寛
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1906~71
中国の軍事・政治指導者。湖北省出身。1927年中国共産党に入党し,南昌暴動に参加。労農紅軍の部隊長を歴任して34年長征に参加,中国人民抗日軍政大学校長なども務める。37年日本軍板垣師団を撃破するなど活躍したが戦闘中に負傷し,38年からモスクワで療養。国共内戦では東北民主連軍(のちの東北野戦軍)司令員として長春,瀋陽(しんよう)などを解放し,その後第四野戦軍司令員,華中軍区司令員として武漢,長沙などを解放,55年元帥に列せられる。彭徳懐(ほうとくかい)の軍近代化路線を批判して59年国防部長に就任,65年にはベトナム戦争支援をめぐって総参謀長羅瑞卿(らずいけい)を批判し,毛沢東の人民戦争路線を推進した。66年軍内の文化大革命を主導し,毛沢東の後継者に推される。だが70年国家主席の地位をめぐって毛沢東と対立し,毛沢東暗殺を計画したといわれる。計画の発覚により71年ソ連への逃亡を試みたがモンゴルで墜死,73年に林彪事件として公表されたが,まだ謎が多い。
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… そして中国では1973年夏から約3年間,人民大衆を広くまきこむ大規模な孔子批判の動きが勃発した。それは当時,文化大革命の裏切者と評された林彪と孔子とを合わせて批判しようとした批林批孔運動である。そこでは,孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルが貼られた。…
… こうして,〈階級闘争〉への道を準備するかたわら,現実政策面では,工業における大慶油田,農業における大寨生産大隊が,階級闘争と自力更生をつらぬいたモデルとして樹立された(1964)。 いっぽう,彭徳懐の後を襲った林彪国防相の下で始められた人民解放軍内の毛沢東思想学習運動は,65年に入ると,政治,経済,文化のあらゆる領域で,その唯一無二の有効性がキャンペーンされるようになり,それはそのまま文革のための直接的世論作りの役割を担うことになった。(3)第3期(1966‐76) 中共中央は,のちに〈“文化大革命”は,指導者が誤ってひきおこし,反革命集団に利用され,党と国家,および各民族人民に重大な災難をもたらした内乱であった〉(〈建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議〉1981年6月)として,全面的にこれを否定する総括を行った。…
…1927年創建された紅軍は37年8月国共再合作がなると国民革命軍に改編された。華北にあった主力は第八路軍(国民党政府はのち戦時編成として第十八集団軍に改称したが,中国共産党側は八路軍の名を愛用し,一般民衆から〈八路〉とよばれた)に改編,第115師(長林彪),第120師(長賀竜),第129師(長劉伯承)の3個師編成とされた。八路軍は抗戦初期日本軍が華北のほとんど全域を席捲すると,空白となった敵後方に進出して,〈基本的には遊撃戦だが,運動戦もゆるがせにしない〉方針で活動し,人民を組織して根拠地を建設するという長期持久の人民戦争戦略をとった。…
…しかし,劉少奇(国家主席)ら実権派官僚の押えこみにあって,運動は燃え上がらなかった。そこで毛沢東は林彪(国防相)と結んで人民解放軍を味方につけながら,思想問題に敏感で組織的に自由な大学や高校,中学の学生の間に〈紅衛兵〉を組織し,そのエネルギーを実権派批判に向けた。
[第2期]
66年8月の中国共産党8期11中全会で,毛沢東はみずから会場に劉少奇攻撃の大字報(〈司令部を砲撃しよう〉)をはり出すなどし,強引に〈プロレタリア文化大革命に関する決定(16ヵ条)〉を決定し,この中で運動の目的を,〈資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし,ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する〉ことだと指し示した。…
…五台山と恒山の両山塊にはさまれた,せまい谷底を制する交通上,軍事上の要衝で,現在京原鉄道(北京~原平)が通る。1937年9月24日太原攻略を目ざして前進中の日本の華北方面軍第5師団第21旅団はここで林彪の指揮する中国共産軍(第八路軍)115師団の待伏攻撃にあい潰滅した。国民政府軍が日本軍に連戦連敗している中での,この戦勝は中国の抗日の士気を大いに高めた。…
※「林彪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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