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林彪 りんぴょうLin Biao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

林彪
りんぴょう
Lin Biao

[生]光緒34(1908).湖北,黄崗
[没]1971.9.13. モンゴル,ウンドルハン
中国の軍人,政治家。黄埔軍官学校卒業後,第4軍の将校として北伐に参加し,1928年井崗山で毛沢東,朱徳らのもとで紅軍を創設。長征のときは第1軍団司令。 1936年抗日軍政大学校長となり,1937年日中戦争が始まると八路軍第 115師長として平型関で日本軍の板垣師団を撃破した。負傷して治療のためソビエト連邦に滞在し,帰国後,1945年東北民主連軍総司令に任命され,その後東北人民解放軍司令,第4野戦軍司令などを経て,1950年の朝鮮戦争では中国人民志願軍司令を務めた。 1954年国務院副総理,国防委員会副主席,1958年党中央委員会副主席,中央政治局常務委員に選ばれ,1959年彭徳懐の失脚に伴い国防部長に就任。 1965年『人民戦争の勝利万歳』と題する論文を発表して毛沢東の人民戦争戦略を擁護し,文化大革命の過程では先頭に立ち,1966年8月の8期十一中全会でただ一人の党副主席に選ばれた。 1969年4月の九全大会で政治報告を行ない,新たに採択された党規約のなかで毛沢東主席の後継者と規定された。九全大会の直前,修正主義的な内容の政治報告 (→林彪報告 ) を起草したが,毛沢東らの党中央によって否定された。 1971年9月毛沢東を殺害しようとする武装クーデター計画 (→林彪事件 ) に失敗し,飛行機でソ連へ逃亡の途中,墜落死した。 1973年8月の十全大会で,「ブルジョア階級の野心家,陰謀家,反革命二面派,裏切者」として党から永久に追放された。

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デジタル大辞泉の解説

りん‐ぴょう〔‐ペウ〕【林彪】

[1909~1971]中国の軍人・政治家。湖北省黄安(こうあん)県の人。1925年中国共産党入党北伐南昌暴動に参加後、毛沢東朱徳らと紅軍を建設、以後軍の要職を歴任した。文化大革命で運動の先頭に立ち、毛沢東の後継者に指名されたが、クーデターを計画して失敗、ソ連へ亡命を企て飛行機事故で死亡。リン=ピアオ。

リン‐ピアオ【林彪】

りんぴょう(林彪)

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世界大百科事典 第2版の解説

りんぴょう【林彪 Lín Biāo】

1908‐71
中国の軍人。湖北省黄岡の出身。1924年黄埔軍官学校に入り,26年北伐に参加,27年8月南昌蜂起に参加。朱徳の指揮下で28年井岡山で毛沢東部隊と合流,24歳で紅4軍長。さらに第1軍団司令に昇進して長征に参加。36年延安で抗日軍政大学校長,国共再合作で第115師長に任ぜられ,37年9月平型関の戦で日本軍第5師団に大損害を与えて,八路軍の名声をあげた。38年3月負傷してソ連に赴いて治療,国共内戦では東北民主聯軍司令,第4野戦軍司令となり,48年10月の遼瀋戦役で東北にあった国民党政府軍精鋭部隊を殲滅(せんめつ)し,内戦の勝利を決定的にした。

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大辞林 第三版の解説

りんぴょう【林彪】

1908~1971) 中国の軍人。北伐に参加、毛沢東・朱徳らと紅軍を創建。軍要職を歴任し文化大革命を推進。毛沢東の後継者に指名されたが、党内対立を生じ、反毛クーデターを計画。失敗して飛行機で逃亡中、墜落死亡したとされる。リン=ピアオ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

林彪
りんぴょう / リンピァオ
(1909―1971)

中国の軍人、政治家。湖北省出身。1924年、第一次国共合作のなかで黄埔軍官学校に入り、翌1925年中国共産党入党。1926年からの北伐には将校として従軍、1927年、国共分裂後、南昌(なんしょう/ナンチャン)暴動に参加し、翌1928年、井岡山(せいこうざん)に入って、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)、朱徳に従い紅軍の中隊長、大隊長などに任じ、長征の際は第一軍団司令。1937年には八路軍第一一五師団長として日本の板垣兵団を平型関で撃破した。1939年、延安の抗日軍政大学校長となり、そのあと2年余り当時のソ連で療養。1945年、延安で開かれた中国共産党第6回大会で中央委員に選出された。
 抗日戦争終了後、1946年、東北民主連軍(のち東北人民解放軍)司令として国民党軍を撃破、天津(てんしん/ティエンチン)、北京(ペキン)を解放した。その後、第四野戦軍司令、中南軍政委員会主席として南下、朝鮮戦争では彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)と交替して義勇軍総司令。1954年、国務院副総理、国防委員会副主席。1955年、中国共産党政治局員、元帥、1958年、党中央委副主席、政治局常務委員、1959年には彭徳懐にかわって国防部長となって、毛沢東思想の学習宣伝を積極化した。
 1966年からの文化大革命では運動の先頭にたち、1969年の第9回大会では党規約に毛沢東主席の後継者と明記されたが、1971年9月、武装クーデターを計画して失敗、旧ソ連へ亡命を企て、モンゴルのウンデルハンで飛行機が墜落、死亡した。死後、批林批孔運動が起こり、孔子批判に結び付けての林彪批判が展開された。[安藤彦太郎]

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世界大百科事典内の林彪の言及

【孔子批判】より

… そして中国では1973年夏から約3年間,人民大衆を広くまきこむ大規模な孔子批判の動きが勃発した。それは当時,文化大革命の裏切者と評された林彪と孔子とを合わせて批判しようとした批林批孔運動である。そこでは,孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルが貼られた。…

【中華人民共和国】より

… こうして,〈階級闘争〉への道を準備するかたわら,現実政策面では,工業における大慶油田,農業における大寨生産大隊が,階級闘争と自力更生をつらぬいたモデルとして樹立された(1964)。 いっぽう,彭徳懐の後を襲った林彪国防相の下で始められた人民解放軍内の毛沢東思想学習運動は,65年に入ると,政治,経済,文化のあらゆる領域で,その唯一無二の有効性がキャンペーンされるようになり,それはそのまま文革のための直接的世論作りの役割を担うことになった。(3)第3期(1966‐76) 中共中央は,のちに〈“文化大革命”は,指導者が誤ってひきおこし,反革命集団に利用され,党と国家,および各民族人民に重大な災難をもたらした内乱であった〉(〈建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議〉1981年6月)として,全面的にこれを否定する総括を行った。…

【八路軍】より

…1927年創建された紅軍は37年8月国共再合作がなると国民革命軍に改編された。華北にあった主力は第八路軍(国民党政府はのち戦時編成として第十八集団軍に改称したが,中国共産党側は八路軍の名を愛用し,一般民衆から〈八路〉とよばれた)に改編,第115師(長林彪),第120師(長賀竜),第129師(長劉伯承)の3個師編成とされた。八路軍は抗戦初期日本軍が華北のほとんど全域を席捲すると,空白となった敵後方に進出して,〈基本的には遊撃戦だが,運動戦もゆるがせにしない〉方針で活動し,人民を組織して根拠地を建設するという長期持久の人民戦争戦略をとった。…

【文化大革命】より

…しかし,劉少奇(国家主席)ら実権派官僚の押えこみにあって,運動は燃え上がらなかった。そこで毛沢東は林彪(国防相)と結んで人民解放軍を味方につけながら,思想問題に敏感で組織的に自由な大学や高校,中学の学生の間に〈紅衛兵〉を組織し,そのエネルギーを実権派批判に向けた。
[第2期]
 66年8月の中国共産党8期11中全会で,毛沢東はみずから会場に劉少奇攻撃の大字報(〈司令部を砲撃しよう〉)をはり出すなどし,強引に〈プロレタリア文化大革命に関する決定(16ヵ条)〉を決定し,この中で運動の目的を,〈資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし,ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する〉ことだと指し示した。…

【平型関】より

…五台山と恒山の両山塊にはさまれた,せまい谷底を制する交通上,軍事上の要衝で,現在京原鉄道(北京~原平)が通る。1937年9月24日太原攻略を目ざして前進中の日本の華北方面軍第5師団第21旅団はここで林彪の指揮する中国共産軍(第八路軍)115師団の待伏攻撃にあい潰滅した。国民政府軍が日本軍に連戦連敗している中での,この戦勝は中国の抗日の士気を大いに高めた。…

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