中国の政治家。毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の3番目の妻。山東(さんとう/シャントン)省諸城県出身。幼時、離婚した母とともに出郷、1923年天津(てんしん/ティエンチン)の紙たばこ工場で働く。1929年済南(さいなん/チーナン)の実験劇院に入り、1930年北京(ペキン)、1931年青島(チンタオ)や農村で新劇を巡演。1933年青島で中国共産党に入党。同年上海(シャンハイ)に移る。1934年一時逮捕される。藍蘋(ランピン)の芸名で女優として活躍。1937年日本軍占領下の上海を脱出し、延安(えんあん/イエンアン)に入る。マルクス・レーニン学院で毛沢東の教えを受け、1939年毛と結婚。魯迅(ろじん/ルーシュン)芸術学校で教鞭(きょうべん)をとる。1950年北京新政府文化省の映画指導員。1963年京劇の現代化、革命化を主導し、1964年バレエ『紅色娘子軍』などの改作指導にあたり、これらの演劇改革が「文化大革命」の導火線となった。1966年林彪(りんぴょう/リンピァオ)と文芸工作用の「紀要」を作製して文革をリード。中央文革小組(組長は陳伯達(ちんはくたつ/チェンポーター))第一副組長。1967年軍文革小組顧問となり、紅衛兵を直接指揮。1969年、1973年党政治局員となる。1974年以後ももっぱら文化界に圧力を加えるなど、大いに権勢を振るい女帝とよばれた。
毛の死亡直後の1976年10月「四人組」の中心人物として逮捕され、1981年の林彪・江青反革命集団裁判で罪状否認するも死刑、執行猶予2年の判決を受けた。1991年5月病気を苦にして自殺。
[高市恵之助・渋谷 司]
『R・ウィトケ著、中嶋嶺雄・宇佐美滋訳『江青』上下(1977・パシフィカ)』
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1913?~91
中国現代の政治家。毛沢東夫人。文化大革命の中心的人物の一人。山東省諸城の人。本名李進。1933年共産党に入党。藍蘋(らんひん)の芸名のもと,上海演劇界で活躍。37年延安に入り,江青と改名。38年に毛沢東と結婚するが政治活動は禁じられる。文化大革命の際には,いわゆる四人組を結成して,武闘を支持。とりわけ上海時代の旧知に迫害を加える。また劉少奇(りゅうしょうき)と夫人の王光美(おうこうび)をともに激しく批判した。76年に「批林批孔」運動を展開して周恩来を攻撃し,毛沢東に警戒心を抱かせた。76年に毛が死ぬと逮捕されて失脚した。81年の裁判では,自分の行動はすべて毛沢東の指示に従ったものとし無罪を主張したが,死刑判決を受けた。のち無期懲役に減刑されたが自殺した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…前者には毛沢東という切り札があったが,人材に欠けるという弱点があり,後者は逆に実務能力で優位に立ったが,修正主義者のレッテルをはられるとひとたまりもない時代の空気で,両者はともに決定力に欠けた。文革派の中では,毛沢東暗殺のクーデタに失敗してジェット機でソ連への逃亡をはかり,モンゴルで墜死したとされる林彪の失脚(1971年9月13日)以後は,江青,張春橋,姚文元(ようぶんげん),王洪文の上海グループ(のちのいわゆる〈四人組〉)が党中央政治局に根を張った。実務派官僚の代表は一貫して周恩来であった。…
…中国史上,女性で皇帝となったのは彼女だけである。文化大革命の進行過程で,毛沢東夫人の江青は,みずから則天武后の現代版たらんとし,則天武后を賛美する運動を展開し,武周革命の再現を企図したが,失敗に終わった。則天武后【礪波 護】。…
…名のある芸術家や学者,高級官僚はかたっぱしから三角帽子をかぶせられてひきまわされ,〈牛鬼蛇神〉として強制労働に追いやられた。文芸作品は,江青(毛夫人)の息のかかった〈革命模範劇〉を除いて姿を消し,書物が焚かれ,出版活動は停止した。
[第3期]
67年に入ると,実権派の手から権力を奪う〈奪権〉が始まった。…
※「江青」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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